保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(2) [政治]
―――――――エドマンド・バーク保守主義―――――――
―――――保守主義(哲学)の神髄―――――
E・バーク、A・ハミルトン/J・ジェイ/J・マディソン、
A・トクヴィル、オルテガ・イ・ガセット、F・A・ハイエク、
D・ヒューム、ギュスターヴ・ル・ボン ・・・
世界の偉大な保守主義(哲学)者からの現代日本国への警鐘
――7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(2)――
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―――F.A.ハイエク『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、春秋社、13頁(ここから)―――
権力を生みだすのは忠誠であり、またこうして生みだされた権力は、人民の同意があるかぎり拡大する。法の主権が議会の主権と同じことになってしまったのは、この点が忘れられてしまったからである。
また、法の支配〔統治、主権、あるいは至上権〕という考え方は、ルールの源泉(=法の源泉が何であるか)によってではなくルールの属性(=“法”自身がすべてのルールの源泉であること)によって定義される法概念を前提とする。だが、今日では、立法府が、法を(源泉とする「法律」を)制定するために(=する理由で)、立法府と呼ばれるのではなく、法(→「法律」の意味)が〔その決定様式あるいは内容に関係なく〕(=“法”を源泉とせねばならぬ、という制限なしに=“法の支配”無しに)立法府から(自由勝手に)生まれるために(誤って、「法律」が)法と呼ばれる。
―――F.A.ハイエク『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、春秋社、13頁(ここまで)―――
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:ハイエクの“法”の概念は、「一般的利益・万人に共通の利益に関するルール」=「一般的ルール」=「万人に等しく適用される正しい行動のルール=正義」などと定義される。
エドワード・コーク、エドマンド・バークの“法”にせよ、ハイエクの“法”にせよ、“法”とは、決して人間が理性によって自由に設計できるものではなく、慣習や伝統及び道徳に由来し、祖先から子孫へ世襲されて生き続けるものであり、“法”が、あらゆる「法律」の源泉であり、“法の支配”・“法による制限”を超越する「法律」を、現在世代の人間集団にすぎない立法府が、過去の祖先の意向も未来の子孫の意向も無視して、自由気ままに変更したり、生みだしたり、廃止したりすることなどできないし、許されない。
そのような行為は、過去のすべての祖先への冒瀆行為であり、未来のすべての子孫への背信行為、無道徳行為である。
立法府が立法できる「法律」は、あらゆるルールの源泉である“法”の支配下に属する「法律」のみである。
これは、行政権力・立法権力の暴走行為(=多数者の専制)を制限し、国民の「生命/安全・私有財産・自由/道徳」を保障・擁護するための、保守主義(真正自由主義・伝統主義)の根本原理である。
が、現代民主主義下の立法府は、“法”に反するどのような「法律」でも好き勝手に立法できるのだ、と「法実証主義・人定法主義に基づく傲慢な思い上がり」を抱いているということである。
例えば、自民党・公明党の「児童手当法」や民主党の「子供手当法」は、日本国在住の外国人の母国で生活する子供にまで手当てを給付することとしているが、これらは、日本国民の権利である日本国憲法第二十五条の生存権の適用範囲を明確に逸脱している。
日本国籍を有する日本国民と日本国籍を有しない外国人には、権利上の差別(区別)を設けて然るべきであり、このような国籍の有無による権利上の扱いの差別は、人種差別撤廃条約においても人種差別の定義の適用除外と規定されており、人種差別には該当しない。
また、民主党が立法しようと意図した「在日外国人地方参政権付与法案」は、憲法十条・十五条等に明らかに違反し、かつ、そもそも論として、国籍の有無による選挙権の有無という、権利上の明確な差別は、国際法上「人種差別にあたらないと定義してある」のだから、このような立法の必要性が本当にあるのか、なぜ現行のままではいけないのか、日本国民の多数がそれを望んでいるのか、自由社会の欧米諸国はどうなのか、等の政府説明すらなく、その立法根拠は極めて意味薄弱であり、恣意的である。
解り易く言えば、「在日外国人地方参政権付与法案」の目的は、民主党が選挙で多数票を集めるために、特定の圧力団体/利益団体へ分配する特殊な便益の供与にすぎない。
この法案のように、自らの政党の多数票の集票目的のためにのみ、ある特定の利益団体へ行なう特殊便益の供与が、必ず近い将来、日本国民の存在意義を消滅させ、日本国を破壊し、廃墟に至らしめるであろうことを、民主党は「知らずに」立法しているのではない。
「そうなるであろうこと知っていて」、日本国・日本国民に対する反日的な呪詛・怨念と日本国の社会主義国化・共産主義国化の手段として、確信犯的に立法しているのである。
このようなことは、真正の保守主義者らが、何度も、何度もその立法が明らかな憲法違反であると説明しても、「頑なにその立法の信条を曲げない」こと、「その法案の必要性等の説明責任において必ず、日本国民に説明するよりも、中共・韓国(民団)・北朝鮮(朝鮮総連)に法案成立を約束することが優先している」態度から明白であろう。
繰り返すが、7月11日の選挙は、極左政党・民主党を勝たせない選挙である。真正の日本国民は、選挙区・比例区とも一票たりとも民主党に入れてはならない。)
―――F.A.ハイエク『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、春秋社、14頁(ここから)―――
「民主主義(=デモクラシー)」はその用語の本来の意味とはほとんど関係のないさまざまな事柄を記述するために使われてきたし、いまでも(その用語の)意味されるものが、「平等」であるところで(=誤って「平等」と同義で)使われている。
厳密に言えば、それ(=民主主義)は、政府の決裁を決定する方法、ないしは手続きに関係するのであって、政府の実質的な善や目標〔たとえば一種の物質的平等〕に関係するものでも、非政府組織〔たとえば、教育、医療、軍事、商業にかんする組織〕に合理的に適用できる方法でもない。
これらの誤用はいずれも「民主主義」という言葉から、あらゆる明確な意味を奪っている。
―――F.A.ハイエク『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、春秋社、14頁(ここまで)―――
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:ハイエクは同書248頁で、民主主義の本来的意味として、次のように述べている。
「民主主義は、多数派の意志に政府の行動を平和的に順応させるための方法を与える」
「私は民主主義という用語を、われわれが血を流すことなしに――例えば総選挙によって――排除することのできる政府にたいする短い手頃な呼び名として提案する。すなわち、この社会制度は被統治者が統治者を追い払うことのできる手段を与える」
「平和的変化の手段としての民主主義」)
―――F.A.ハイエク『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、春秋社、19頁、36頁(ここから)―――
古典的な代議制政体論は次のように仮定した。
代議士が、(彼に)権限を委譲した(すべての)人びとの利益のために行動することによって自らの利益のために行動するとき(=自分以外のすべての人々の利益のために行動する結果が、自分の利益にもなるように行動するとき)、
自らとその子孫も服従しなければならない法を除いていかなる法も制定しないとき(=将来世代に対しても普遍的に適用されうる法のみを制定するとき)、
(自分が)支払わねばならない金銭以外いかなる金銭も(人々に)与えないとき(=財政の収支バランスを堅持するとき)、
同国人と同様に自身の身にふりかからなければならない迷惑以外いかなる迷惑もかけないとき(=どうしても国民に迷惑をかけねばならない時でも、自分に降りかかる迷惑以上の迷惑が国民に降りかからないようにするとき)、
有権者たちは立派な法、大きな倹約そして迷惑からの解放を期待できるかもしれない。
(→有名な『カトーの書簡』と言われる、真の政治家たる者の、あるべき姿、心構えである)
だが、(現代民主主義において)特定集団に特殊な利益を得させることによって、それらの集団の票を獲得・保持することに主要な関心をもつ成員からなる「立法府」の有権者(=代議士)は、他人が手に入れるものにはほとんど注意を払わず、自分たちが押し問答で獲得するものだけに関心をもつだろう。
たいてい、自らの願望が満たされた代償として、(自分と特定集団の成員以外の)第三者を犠牲にして、ほとんど知らない他人(=特定集団の成員)に何かが与えられることに単純に同意する。
むろんその際、かれらはさまざまな要求が正しいかどうか少しも考えない。(多数派を構成する)各集団は共通の財布(=国庫)から他の集団に不正な利益が与えられることにさえ同意する用意があるだろう。
ただし、それはこうすること(=同意すること)が、ある条件、すなわちこの集団が自分の権利とみなすようになったものに他の集団が同意するための条件であるならば、の話である。
この過程の結果は、なにが正しいかについての誰の意見にも、また、どんな原理にも一致しないだろう。それはメリット(=万人に共通の利益)についての判断にではなく、(特定集団への)政治的便宜に基づいている。
・・・民主主義的立法府が非常に多くの特殊な利益集団が享受している特別な補助金、特権、およびその他の便益を与えてきたのは、(立法府が)それらに対する要求が正しいものであると判断したためなどと誰が主張するだろうか。
(立法府の立法によって、利益集団)Aが安い輸入品の競争から保護され、(利益集団)Bが未熟練工の安い賃金から(保護され)、(利益集団)Cが賃金の低下から(保護され)、(利益集団)Dが失業から、・・・保護されることは、そのような措置の主唱者が、一般的利益になる(=一般的利益に適うものである)と、どんなに主張したところでそうはならない。
代議士たちがこれらの人びとの要求を代わる代わる支持する用意をしているのは、その措置が一般的利益になる(=に適うものである)と確信するからではない。それは、こうした要求をする人びとの支持を得たいからである。
それどころか、・・・「社会的正義」という神話の創造は、この特殊な民主主義的機構の産物である。
なぜなら、この機構によって、代議士たちは自分たちが特定の利益集団に与える便宜の(似非)道徳的根拠(=似非正義の根拠)を考案することが必要になるからである。
・・・現行システムの下で、あらゆる小規模利益集団は、・・・合意した個人の集合体(=ある政党)が多数派となるために必要とする、その小規模集団の支持を引き上げてしまうぞ(=支持を取りやめるぞ、支持しないぞ)と(政党を)脅かすことによって、自己の要求を強く主張することができる。
民主主義的立法府は、・・・特別な補助金、特権および他の便益を、(それが)正しいと考えられるということを理由に認めてきたわけであるが、むろんその口実は実に笑止であろう。
巧みな宣伝活動が時として、特殊な集団のために、(社会的正義などを信じた)少数の情け深い人たちの心を動かしてきた(=騙してきた)かもしれないけれども、またむろん立法府にとって、自分たちが正義の意見によって動かされてきたと主張することは(集票活動にとって)有用であるけれども、多数派の意思と呼ばれる投票機構の産物(=補助金、特権、その他の便益の供与など)は、何が正しく(何が)悪いかについての多数派の意見にまったく一致しない。
―――F.A.ハイエク『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、春秋社、19頁、36頁(ここまで)―――
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:「社会的正義」という「似非正義」、多数派を構成する利益集団による政治家への脅迫・恫喝と政治家による利益集団への補助金や特権やその他の政治的便宜の供与。
これが、現代民主主義の実体であり、日本国の政治もまさにこの典型中の典型である。
この構造は、自民党から民主党に政権交代しても全く変化していない。
それどころか、民主党支持の利益団体が、これまでの自民党支持の利益団体より、一層、左翼的・極左的・反日的つまり、マルクス・レーニン主義的な強欲で恫喝的な利益団体になったあるいは、これまで以上に、それらの利益団体の政府への影響力が増大しただけのことである。
ゆえに政府の政策は、当然の如く左翼的・極左的・反日的つまり、マルクス・レーニン主義的なものへと帰着する。
なお、デモクラシー〈=民主主義〉という美名の訳語を与えられた、多数者による「暴政」制度・「専制」制度の危険性については、エドマンド・バーク以来、世界の多くの保守主義者が警鐘を鳴らし続けているので、次回まとめて紹介する)【2010/06/24 ブログ掲載】
保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(3)へ続く




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