保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(3) [政治]
―――――――エドマンド・バーク保守主義―――――――
―――――保守主義(哲学)の神髄―――――
E・バーク、A・ハミルトン/J・ジェイ/J・マディソン、
A・トクヴィル、オルテガ・イ・ガセット、F・A・ハイエク、
D・ヒューム、ギュスターヴ・ル・ボン ・・・
世界の偉大な保守主義(哲学)者からの現代日本国への警鐘
――7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(3)――
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―――世界の保守主義者によるデモクラシー批判(ここから)―――
―――エドマンド・バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、158頁(ここから)―――
現在に至るまで我々は、取るに足る程の民主主義(=デモクラシー)の実例を見たことがありません。(ローマやアテネなどの)古代人はそれ(=民主政、特に直接民主政=ピュア・デモクラシー)についてより良く知っていました。
私は、民主政憲法を最も多く見て最もよく理解した著述家たち(の著作)について、まったく読んだことがないという訳でもないので、絶対的民主政は絶対的王政に劣らず正統な統治形態には数え難いという彼ら(=著述家たち)の意見に同意せざるをえません。
彼らはそれ(=絶対的民主政)を、一国家の健全な国制であるよりはむしろ腐敗堕落と考えています。
もしも私の記憶が正しければ、民主政には暴政との驚くべき共通点が数多くある、とアリストテレスは見ています。
この問題に関して私は確信をもってこう言えます。即ち、民主政において、多数者の市民は少数者に対して最も残酷な抑圧を加えることができます。激しい分裂がその種の国家組織内に遍く拡がる時は―――実際しばしばそうならざるを得ないのですが―――何時もそうなの(=多数者の市民は少数者に対して最も残酷な抑圧を加える)です。
そして少数者に対するその抑圧は、たった一本の王笏(=一人の国王)の支配からおよそ懸念され得る殆ど如何なる抑圧よりも遥かに多くの人々に及び、しかも遥かに激烈に行使されるのです。
こうした民衆による迫害の下では、個々の受難者は、他の如何なる場合よりも何層倍も悲惨な境遇に置かれます。
一人の暴虐な君主の下では(=暴君が一人だけならば)、彼ら(=暴政下の民衆)には傷の痛みを和らげてくれる(他の多くの)人類の心やすまる同情があります。苦しみの下にあっても、その高邁な堅忍不抜を鼓舞する人々の喝采があります。
ところが、多数者の下で悪に苦しむ人々は、あらゆる外からの慰めを剥奪されるのです。
人間種属全体の陰謀に打ちひしがれて、彼ら(=絶対的民主政という多数者による暴政の下の少数派)は、人類から見捨てられた如くに見えるのです。(初版1790年)
―――エドマンド・バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、158頁(ここまで)―――
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:私は、エドマンド・バークの保守哲学については、これまでのブログで多くを述べてきたので、ここで改めて解説する余地はほとんどない。
偉大な「保守主義の父」、エドマンド・バークの炯眼は、1790年(220年前)に既にわれわれの2010年現在を透視している。
世界の他の偉大な真正保守主義者らにおいてもそうであるが、真正の保守主義者とは、数十年~数百年スパンで、未来を予見する能力がある。
しかもこの偉大な能力はすべて、過去の歴史・慣習・伝統及び、それと連続する現在社会の動向に対する詳細な観察と考察(=保守主義・伝統主義)からのみ得られる予見であって、過去のすべてと現在との連続を切断・分断して未来のユートピアを理性的に設計できると空想する、設計主義的合理(=理性主義)による出鱈目な妄想とは全く非なるものである。
―――A・ハミルトン/J・ジェイ/J・マディソン『ザ・フェデラリスト』、岩波書店、59~60頁(ここから)―――
人民による政治の下で多数者が一つの派閥を構成するときには、派閥が、公共の善と他の市民(=少数者)の権利のいずれをも、自己の支配的な感情や利益の犠牲とすることが可能になる。
それゆえに、人民による政治の精神と形体とを保持しつつ、このような派閥の危険性から公共の善と私的な権利との安全をはかることが、われわれの探究すべき重要な課題となる。
さらにつけ加えるならば、それは人民による政治形態(=デモクラシー)がきわめて長い間こうむってきた非難からそれを救いだし、人類にそれを尊重し採用することを推奨しうるためにも是非必要なことなのである。
・・・直接民主政(=ピュア・デモクラシー)、つまり少数の市民から構成されており、その全市民がみずから集会し、みずから統治する社会を意味する直接民主政は、派閥のもたらす弊害に対してこれを匡正することはできないのである。
というのは、〔直接民主政では〕ある共通の感情あるいは利益が、ほとんどあらゆる場合に全員の過半数のもの(=多数者による一つの派閥)の共鳴するところ(=少数者を犠牲にすること)となろう、からである。
また、(多数者の)相互の意思疎通と行動の一致とが、その(直接民主政という)政治形体そのものから容易に可能となるからである。
したがってまた、弱小の党派や気に入らない個人は、これを切り捨ててしまうという誘惑を抑えるようなものは何もないからである。
それゆえに直接民主政国家は、これまで常に混乱と激論との光景を繰り広げてきたのであり、個人の安全や財産権とは両立しがたいものとなり、また一般的にその(政治形態の)生命は短く、しかもその死滅に際しては暴力をともなうものとなってきたのである。
この種の〔直接〕民主政治形体を支持する理論好きな政治家は、人間をその政治的諸権利において完全に平等なものとすれば、ただちにその財産・思想・感情においても完全に平等なものとなり、かつ相互に同一化されるであろうと考える誤りを犯してきたわけである。(第十篇 派閥の弊害と連邦制による匡正 マディソン 1787年11月22日)
―――A・ハミルトン/J・ジェイ/J・マディソン『ザ・フェデラリスト』、岩波書店、59~60頁(ここまで)―――
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:米国憲法とは、「保守主義の祖」であり、“法の支配=コモン・ロー”の不世出の法曹家であるエドワード・コーク→ブラックストーンを継承した、真正の保守主義者である米国建国の父ら(→彼らの座右の書はブラックストーンの『英国法釈義』であった)によって起草された“準コモン・ロー”であった。
すなわち、米国憲法=立憲主義、準コモン・ロー=“法の支配”の構図であるから、米国憲法の起草においては、デモクラシーの弊害である「多数者の暴政」、「多数者の専制」という権力の濫用・暴走を防止する「制限デモクラシー」をいかに構築するかに全エネルギーが注がれたと言っても過言ではない。
ゆえに、米国憲法は、「権利の章典と言われる国民の権利条項(修正第一条から修正第十条)」が追加されるなど、幾度か修正が加えられているが、それでも、この起草時の憲法の根幹部分(=多数者の暴政、多数者の専制を制限・抑制する制度)は、現在に至るまでの約220年間、若干程度の綻びはあるにせよ、米国憲法の不動の価値として保守され続けているのは事実である)【2010/06/25 ブログ掲載】
保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(4)へ続く




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