保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(4) [政治]
―――――――エドマンド・バーク保守主義―――――――
―――――保守主義(哲学)の神髄―――――
E・バーク、A・ハミルトン/J・ジェイ/J・マディソン、
A・トクヴィル、オルテガ・イ・ガセット、F・A・ハイエク、
D・ヒューム、ギュスターヴ・ル・ボン ・・・
世界の偉大な保守主義(哲学)者からの現代日本国への警鐘
――7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(4)――
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―――世界の保守主義者によるデモクラシー批判(つづき)―――
―――A・トクヴィル『アメリカの民主政治』、講談社学術文庫、162~166頁(ここから)―――
第七章 アメリカ連邦における多数者の専制権力と、その効果について
第一節アメリカ連邦における多数者の専制権力
多数者の支配が絶対的であるということが、民主政治の本質なのである。
なぜかというと、民主政治では、多数者の他には、反抗(=抵抗)するものは何もないからである。
アメリカの大多数の〔諸州〕の憲法(の権利の章典)は、なお(=さらに)その上に多数者のこの自然力を人為的に増大させようとしている。
すべての政治権力の中では、立法議会は最も自発的に多数者に従順に服従している権力である。
アメリカ人(=国民・利益団体)は、立法議会の議員たちが「極めて短い任期」の間、「直接的に」人民(=国民)によって任命されることを欲している。それは彼らの選挙人たち〔多数者としての人民(=国民)〕の一般的見解、並びに日常的情熱に彼等(=立法議会の議員たち)が服従せざるをえないようにするためである。
・・・多数者の道徳的支配は、ただひとりの人間においてよりも多数の人々の団体において、また卓越した個人においてよりも多数の立法者たちにおいて、より大なる知識経験と叡智とがあるという観念に一部もとづいている。
これは知性に適用された平等理論である。
この(平等)理論は、人間の自尊心をその根底において攻撃するものである。
・・・多数者の権力が確立され始めるときには、それは服従を強制する。
・・・すべての政党はいつか多数者を自党の利益になるように使えることを望んでいるために、多数者の権利を認めようとしている。
それゆえにアメリカ連邦では、多数者は事実を動かす巨大な力とこれとほとんど同じくらい偉大な世論の力とをもっている。
そして、多数者がある問題について一旦形成されると、多数者の前進はとても阻止できないし、少なくともそれを遅らせることのできる障害も、全くないといってよいのである。
それで、多数者が前進の途中で蹂躙し破砕する人々(=少数者)の不平に耳を傾けるだけの余裕も、多数者には残っていないのである。このような事態の諸結果は、将来にとって有害であり、そして危険なことである。(トクヴィル著1835年)
―――A・トクヴィル『アメリカの民主政治』、講談社学術文庫、162~166頁(ここまで)―――
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:米国建国の父らは、
①財産や教養のない無責任で気まぐれな「人民(=民衆)」がデモクラシーによって、政治に参加し政治を牛耳ることがないように腐心した。
②また、「人民(=民衆)」が政府に対する権利要求を拡大できないように腐心した。
①について
米国憲法起草者の一人である、J・マディソンのデモクラシー批判は、人間に関する疑念、すなわち、バークと同様に、人間の不完全性を深く洞察している。
マディソン曰く、
「直接民主政国家は、これまで常に混乱と激論との光景を繰り広げてきたのであり、個人の安全や財産権とは両立しがたいものとなり、また一般的にその(政治形態の)生命は短く、しかもその死滅に際しては暴力をともなうものとなってきた」〔上述、『ザ・フェデラリスト』、岩波文庫、60頁〕
「人民の代表によって表明された公衆の声(=代議制による議会の意見=間接民主政)のほうが、民意表明を目的として集合した人民自身によって表明される場合(=直接民主政の場合)よりも、いっそう公共の善に合致することになろう」〔上述、『ザ・フェデラリスト』、岩波文庫、61頁〕
「〔直接〕民主政国家では、多数の人民が直接自分で立法機能を行使するが、彼らは規則正しく審議し、共同して立法する能力を欠いているため、行政担当者の野心的な陰謀の犠牲となる恐れが常にあり、したがって、一度条件さえ整えば、行政部方面から圧制が生じてくる危惧が十分ある」〔上述、『ザ・フェデラリスト』、岩波文庫、227頁〕
「およそ人民に直接訴えるということは、本来政治機構そのものに一定の欠陥が存することを意味しているとも思われるので、人民に頻繁に訴えるということは、元来、時間とともに育まれる(政府への)尊敬、それ(=国民の尊敬)なくしてはおそらくどんな賢明かつ自由な政府といえども必要な安定性を保有し得なくなる国民の尊敬を政府が失うことになろう」〔『ザ・フェデラリスト』、福村出版、247頁〕
人間の完全性を前提とするデモクラシーは、現実には人間の不完全性によって、健全な政治を招来しない。
このことは、ルソー主義の「人民主権」を唱え、「理性神」を崇拝する狂気のジャコバン党によって煽動され、引き起こされたフランス革命において、デモクラシーによって王政から解放された「人民」がなしたのは、「キリスト教(宗教)破壊」と「人民約50万人の殺戮」という国家テロルであり、政治の機能不全であったという史実からも証明されている。
②について
「米国保守主義の父」、A・ハミルトンは、権利の章典といわれる「国民の権利」条項が、独裁者の専制体制を米国に招き入れる危険な条項になるとみなしていた。
「国民の権利」条項が必ず政府権力の肥大化を招くと強い懸念を訴え、権利の章典(「国民の権利」条項)は憲法制定会議ですべてが削除された。ゆえに1787年制定の7カ条の米国憲法には米国民の権利規定は一切ない。
また、制定時の米国憲法には、「人民主権」、「国民主権」の政治概念も一切ないし、現在もない。
ハミルトン曰く、
「強固にして効率的な(=人民の諸権利に関わりを持たない、諸権利に権力の手を伸ばさない)政府を熱望する一見厳しい外見よりも、むしろ人民の諸権利を標榜するもっともらしい仮面のかげに、かえって危険な野心が潜んでいる・・・。
歴史の教えるところでは、後者〔人民の友といった仮面〕(=国民に向かって権利〔民
意〕、権利〔民意〕・・・とまくし立てる政府・政党)のほうが、前者〔強力な政府権力〕
よりも、専制主義を導入するのに、より確実な道であった。そして、共和国の自由を転覆す
るに至った人びとの大多数は、その政治的経歴を人民への追従から始めている。
すなわち、煽動者たることから始まり、専制者として終わっているのである」〔上述、『ザ・フェデラリスト』、岩波文庫、19頁〕
しかし、1791年に、デモクラシー派の巻き返しによって、米国憲法に権利の章典と言われる「国民の権利」条項、修正第一条~修正第十条が追加された。
上記のトクヴィルの著作は、1835年であり、その内容から判断すれば、当時の米国でトクヴィルはデモクラシーの弊害である「多数者の暴政・専制」と「国民の平等化原理」を洞察している。
建国の父ら保守主義者の腐心した「制限民主政」の思想が正統な憲法思想であり、1791年の修正十カ条の追加以降1835年までに、米国も徐々にデモクラシーの弊害に腐食されていったと言ってよかろう。
また、現在の日本国民は、上記の『ザ・フェデラリスト』、岩波文庫、19頁で述べられている歴史の教訓を拳々服膺すべきであろう。
まさに、日本国の、いくつかの政党が日本国民に対してとる態度そのものではないか?)
―――A・トクヴィル『アメリカの民主政治』、講談社学術文庫、170~173頁(ここから)―――
第三節 多数者の専制
政治については人民の多数者が何をしてもよい権利をもっているという公理を、わたくしは瀆神的なもの、そしてとても嫌忌すべきものとみなしている。
・・・「多数者にあらゆる権力を与えることを恐れることはない」と言い散らしている人々がある。けれどもそのような言(=論理)は奴隷の言葉(=論理)である。
集合体としての多数者(=集合体としての一つの個体)は、そういうこととなると、少数者とよばれている別の個体に反対する意見をもち、そしてまたしばしば、その別の個体に対する利益をもった一個の個体でなくして、一体何であろうか。
ところで、もし全権を与えられているあるひとりの人間が、その全権をその反対者たちに対して濫用することができるとすれば、同じことは多数者にとっても認められねばならないであろう。
人々は団結することによって(全権を与えられたひとりの人間と比較して)性格を変えているであろうか。
人々は、(多数者として団結することによって)より強力になることによって、より一層忍耐強くなっているであろうか。わたくしは、そのようには信ずることはできない。
・・・特にこの種の政治形体〔混合的政治形体〕の例として指摘されている18世紀のイギリスは、そのうちに民主政治の偉大な諸要素を含んでいた本質的に貴族的な国家であった。
なぜかというと、そこでは貴族が結局は常に優越して支配力をもち、そして思いのままに公務を統導するようになっているからである。
といっても、そこではそうなるように法律(=英国法)と風習(=慣習)とがつくりあげられていたのである。
・・・ある社会が真実に混合政治形態をもつようになるとき、すなわち、その社会が等しくそう反する諸原理にしたがって別れ別れに支配されるとき、その社会は革命に陥るか、また(は)瓦解することとなるか(の)いずれかである。
それゆえに、他のすべての権力に優越した社会的権力が、常にどこかになければならない。
けれども、この権力が自らの前に、その無鉄砲な前進を抑制される障害をもち、そしてなお、自らを節度化する時の余裕を与えるだけの障害をもたなければ、自由は危うくされるであろう。(トクヴィル著1835年)
―――A・トクヴィル『アメリカの民主政治』、講談社学術文庫、170~173頁(ここまで)―――
―――A・トクヴィル『アメリカの民主政治』、講談社学術文庫、188~189頁(ここから)―――
どんな政治形態でも、それらすべてにおいて、下劣は権力に、阿諛は権力に、それぞれ結びつくものであるとわたくしは信じている。
人間が堕落するのを防止するには、一つの手段だけがあるとわたくしは思っている。
それは(=その手段とは)誰にも人々を愚劣なものにする全権を、(つまり)主権を与えないことである。(トクヴィル著1835年)
―――A・トクヴィル『アメリカの民主政治』、講談社学術文庫、188~189頁(ここまで)―――
―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、20~21頁(ここから)―――
近年の政治的変革は大衆の政治権力化以外の何ものでもないと考えている。
かつてのデモクラシーは、かなり強度の自由主義と法に対する情熱とによって緩和(=制限)されたものであった。
これらの原則を遵奉することにより、個人は自分のうちに厳しい規律を維持することを自ら義務付けていた。自由主義の原則と法の規範との庇護によって、少数者は活動し生きることができた(=多数者の専制から擁護された)のである。
そこではデモクラシーと法および合法的共存は同義語であった。
今日われわれは超デモクラシーの勝利に際会しているのである。今や(超デモクラシーの政治においては)、大衆が法を持つことなく直接的に行動し、物理的な圧力を手段として自己の希望と好みを社会に強制しているのである。
・・・当時の大衆は、公の問題に関しては、政治家という少数者の方がそのありとあらゆる欠点や欠陥にもかかわらず、結局は自分たちよりいくらかはよく知っていると考えていた(=政治家をある程度は尊敬し、信頼していた)のである。
ところが今日では、大衆は彼等が喫茶店での話題から考えた結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利があると信じているのである。(オルテガ著1930年)
―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、20~21頁(ここまで)―――
―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、47頁(ここから)―――
実は、自分が過去のどの生よりもいっそう生であると感ずるあまり、過去に対する一切の敬意と配慮を失ってしまったのである。(オルテガ著1930年)
―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、47頁(ここまで)―――
―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、67~68頁(ここから)―――
大衆人とは、生の計画をもたない人間であり、波のまにまに漂う人間である。したがって彼の可能性と彼の権力がいかに巨大であっても、何も建設することがないのである。(オルテガ著1930年)
―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、67~68頁(ここまで)―――
―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、80~82頁(ここから)―――
われわれは、今日(=超デモクラシー時代の)の大衆人の心理図表にまず二つの特徴を指摘することができる。
つまり、自分の生の欲望の(無制限の膨張)、すなわち自分自身の無制限な膨張と自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。
この二つの傾向はあの甘やかされた子どもの心理に特徴的なものである。
・・・誰かを甘やかすというのは、彼の欲望になんの制限も加えないこと、自分には一切のことが許されており、なんの義務も課せられないという印象を彼に与えることである。
こうした条件のもとで育った人間は、自己自身の限界を経験したことがない。
外部からのいっさいの圧力や他人との衝突のすべてから守られてきたために、そうした人間は、ついには、自分だけが存在していると思い込むようになり、自分以外の者の存在を考慮しない習慣、特に如何なる人間をも自分に優る者とはみなさない(=自分より優る者を許せない)習慣がついてしまう。
・・・彼ら(=大衆)最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていないのである。彼等は文明の利点の中に、非常な努力と細心の注意をもってして初めて維持しうる奇跡的な発明と構築とを見てとらない。(オルテガ著1930年)
―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、80~82頁(ここまで)―――
―――世界の保守主義者によるデモクラシー批判(ここまで)―――
【2010/06/25 ブログ掲載】
本ブログ「保守主義の神髄」は、まだまだこれから本論に入っていく段階である。次回以降も、豊富な話題を提供するよう努力するので、興味ある読者の皆さんは、最後までお付き合い頂きたいと願う所存である。
保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(5)へ続く




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