保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(6) [政治]
―――――――エドマンド・バーク保守主義―――――――
―――――保守主義(哲学)の神髄―――――
E・バーク、A・ハミルトン/J・ジェイ/J・マディソン、
A・トクヴィル、オルテガ・イ・ガセット、F・A・ハイエク、
D・ヒューム、ギュスターヴ・ル・ボン ・・・
世界の偉大な保守主義(哲学)者からの現代日本国への警鐘
――7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(6)――
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それではヒュームの道徳哲学の本論に入ろう。
―――D・ヒュームの道徳哲学(その1)―――
―――デヴィット・ヒューム『人性論』、世界の名著 中央公論社、第三篇513~515頁(ここから)―――
哲学において、・・・情念と理性の戦いについて語り、そして理性を優先させて人々は、理性の命令に従う限りにおいてのみ有徳であると主張することほどありふれたことはない。
理性的被造物(=人間・人類)は、すべて自分の行為を理性によって律するよう義務付けられており、・・・古代でも現代でも、道徳哲学の大部分はこうした考え方をもとにしているように思われる。
そのように想定された情念に対する理性の優位ほど、形而上学(=世界の起源は何か、世界は何からできているのかを推論することによって、そこから魂や神の存在の有無などを証明しようとする合理哲学)的な議論にとっても、一般向きの演説にとっても、ゆとりのある戦いはない。
理性の永遠性、不変性、神的起源が、この立場にきわめて有利に呈示されてきた。一方情念の盲目性、不定さ、惑わしがそれに劣らず強く主張されてきたのである。
しかしながら、こういうすべての哲学の誤りを示すために、私は次のことを証明するよう努めたいと思う。
第一に、理性だけでは決してどんな意志の働きにとっても動機となり得ないこと、第二に、意志を導く際に理性が情念と対立することは決してあり得ないこと、である。
・・・知性は、二つの異なった仕方で機能を発揮する。すなわち、(①)論証をもとに判断するか(②)蓋然性(=確からしさ・確実性)をもとに判断するか、言いかえると(①)観念の抽象的な関係を考察するか、(②)経験のみが知らせる対象(=観念の対象であり、観念とは別個の持続的な存在=物自体のこと)の関係を考察するか、である。
ところで、第一の種類の推論だけで、なんらかの行為の原因となるなどと主張されることはほとんどなかろうと信じる。
それ(=推論)の本来の領域は観念(=知覚=心)の世界であるから、そして意志はつねにわれわれを実在(=対象=観念と別個で持続的な存在=物自体)の世界に置くのであるから、そう考えると、論証と意志作用とは相互にまったくかけ離れている(=働きかける世界が異なっている)ように思われる。
なるほど、数学は機械的操作のすべてにおいて有用であり、算術はほとんどすべての技能、職業で有用である。といっても、これらの学問(=数学や算術=観念)自身が(対象・物自体への意志作用に)何らかの影響を与えるわけではない。
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:われわれが、自分の意志によって、何らかの行為をする時に、必ずしも、数学や算術を用いて計算してから行為したり、推論を重ねて熟考して判断を下したりした後に、行為を起こすわけではないことから、自明であろう)
・・・こういうわけで、抽象的あるいは論証的な推論がわれわれの行為に影響を与えるのは、原因と結果に関する判断を正しくする場合だけであって、それ以外には決して影響しないのである。
ところで、この因果についての判断ということから、われわれは知性の第二の作用(=意志を導く際に理性が情念と対立することはあり得ないことの考察)へと向かわせられる。
明らかに、何らかの対象から快あるいは苦を予期すると、われわれは、その結果として嫌悪または愛着の感動が起こるのを感じ、この不快または満足を与えると思うもの(=不快を予期させるもの)を避けよう、あるいは(快を予期させるものを)取り込もうというという気に駆られる。
また、明らかに、こうした感動は、これだけにとどまらず、あらゆる面に視線を向けさせて(=視線を向ける衝動を起して)、そのもともとの対象(=快あるいは苦を予期させた対象)と因果の関係によって結合しているもの(=もとの対象と因果関係のある別の対象)をどんなものでも包みこんでしまう。
そこで、この関係を見出すためにここに推論がなされ(=感動に影響された対象の間の因果関係を見いだす・あるいは変更する推論がなされ)そして、推論が変わる(=対象の間の因果関係が変わる)のに応じてわれわれの行為もそれに伴って変化を受ける。
しかしながら、この場合、明らかに衝動が理性から起こるというのではなく、衝動が理性によってただ導かれるだけのことである。
ある対象に向かって愛着または嫌悪が生じるのは、快あるいは苦の予期からである。そして、これらの感動はその対象(と他の対象と)の原因や結果(の関係)へと、理性と経験によって指示されるにつれて広がってゆく。
しかし、もしそういう原因や結果(の関係)がわれわれにとってどうでもよい(=興味のない)ものであれば、これこれの対象が原因でこれこれの対象が結果であると知ることが、われわれの関心をひくことは決してあり得ない。
対象そのものがわれわれの心を動かさない場合には、それらの対象(と他の対象と)の〔原因と結果の〕結合は決して(もとの)対象になんらかの影響力も与えることはできない。
ところで、理性はこの(対象の間の因果関係の)結合を見出すだけであるから、(理性が見いだした)対象(の因果関係の結合)がわれわれの心を動かしうるのは理性によってではあり得ない(=理性によるものではない)ことは明らかである。
このように、理性だけでは、いかなる行為も生みだし得ず、意志作用を生じえないのだから、これから推理して、同じ理性という機能が意志作用を妨げたり、情念あるいは感動と優先を争ったりもできないはずである。この帰結は必然である。
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:最初にも述べたが、ヒュームの『人性論』を読んだことがない読者の皆さんにとっては、上記のヒュームの説明は、少し理解しにくいかもしれないが、当前のことである。
『人性論』を試しに全文読んでみれば、わかるであろうが、ヒュームの哲学を、趣旨を取り違えずに正確に読み抜くのは、極めて根気のいる厄介な作業である。道徳哲学に興味がある読者がおられたら、一度挑戦してみると面白いかもしれない。
しかし、上記箇所の結論はごく簡単であって、われわれが何かの意志をもって行為しようとする時、論証的な理性が意志作用を起させて行為するのか、情念〔=ヒュームによる情念の定義:①恐れ/望み/喜び/悲しみ/嫌悪/欲望/安心/失望、②憐み/羨み/愛憎/高慢/野望/卑下/誇り/寛大/悪意etc〕や感動が意志作用を起こさせて行為するのか、あるいはどちらが優先的であるのか、という疑問に対して、誰でも解る当然の結論を哲学的に詳細に考察しているだけである。
結論は当然、意志作用は情念や感動によって起される、ということである。
しかし理性が行為に全く関係しないわけではなく、理性は行為の対象(=ある物体・事象)と対象(=その他の物体・事象)の間の因果関係を見出し、意志作用の手助けをするだけであり、理性の見いだした対象間の因果関係に対する感動(=快・苦、愛着・嫌悪)が、次の段階の意志作用の方向性を決定するのである)
こうして、情念と対立する原理は理性と同一のものではあり得ず(=情念の反対概念は理性ではなく)は、ただ不正確な意味でそう(=理性と)呼ばれているだけなのであるのは、確かである。
われわれが、情念と理性の戦いについて語るときは、われわれは厳密に、哲学的に話しているのではない。
(結論として)理性は情念の奴隷であり、またそれだけのものであるべきであって、理性は情念に仕え、従う以外に何らかの役目をあえて望むことは決してできないのである。
―――デヴィット・ヒューム『人性論』、世界の名著 中央公論社、第三篇513~515頁(ここまで)―――
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:以上で、ヒュームは、人間の意志作用と行為における情念や感動と理性の関係を明らかにした。次に、ヒュームから、理性と道徳の関係を学ぶこととしよう)
―――デヴィット・ヒューム『人性論』、世界の名著 中央公論社、第三篇518~520頁(ここから)―――
知覚のほかには何ものも決して心に現われない。
心は、知覚という名辞(=概念)に包括されないような何らかの働きとして作用を現わすことは決してできない。
・・・知覚は印象と観念とに別れるので、この区別が一つの問題を提起する。
・・・それは、われわれが徳と悪徳とを区別して、ある行為について、非難されるべきである、あるいは賞賛に値すると宣告するのは、観念なのか、それとも印象によってなのか、と言う問題である。
・・・徳は理性との合致にほかならぬとか、事物本来の目的への適合性(=徳)、不適合性(=悪徳)なるものがあり、これは、事物を考えるすべての理性的存在(=人間)に同一である(=徳、悪徳は理性的であるか否かで決定する)とか、正と不正の不変の規準があってこれが人間にだけでなく、神にも責務を課するとか、いろいろと(誤った)主張(を)する人々(=哲学者の一派)がいる。
これらすべての体系は、道徳が、真理と同様、ただ観念によるだけで、つまり、観念の並置や比較によるだけで見分けられるという意見で一致している。
そこで、これらの体系について(の真偽を)判定するためには、理性だけから道徳的な善悪を判別できるかどうか、そうした区別をなしうるためには、何らかの他の原理が共同して働かねばならないかどうか、調べてみるだけでよい。
・・・普通、哲学は思索的なものと実践的なものとに区分されており、そして道徳は常に後のほうの(実践的な)区分けに含まれているのだから、道徳は情念や行為に影響を及ぼし、知性の冷静な心を動かさぬ判断の範囲を越え出るものと想定されるわけである。
・・・経験がわれわれに知らせるように、人々はしばしば義務(=徳)によって制御されて、不正(=悪徳)と考えてある行為を思いとどまり、責務(=道徳)と考えて他の行為へ駆り立てるのである。
そういうわけで道徳は行為や感情に影響を及ぼすのだから、道徳(=徳と悪徳あるいは善と悪の区別)は理性に起因しえないということになる。
すでに(上記で)示したように理性だけではそういう影響力を決して持ち得ないからである。
道徳は情念を呼び起こし、そして行為を生じさせたり、妨げたりする。ところが、理性そのものはこの点について全く無力である。
したがって道徳の規則は理性の規則ではない。
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:つまり、道徳〔義務や責務〕は、意志作用に影響を与え、行為するか否かに影響を及ぼす。
しかし、上記で見たように理性は、理性のみで意志作用を生起させ、行為させる力はない。
ゆえに、道徳は理性に起因しえないという結論になる)
理性は真または偽を見出すことである。真偽は、観念の間の(=観念Aと観念Bの間の関係と)実際の(対象Aと対象Bの間の)関係との(間の)一致または不一致に(ある)か、それとも(観念Cと)実際の存在や事実(=対象C)との一致または不一致に(ある)か、そのいずれかにある。
したがって、このような一致または不一致を容れる(=許容する)余地のないものはすべて真あるいは偽でありえず、決して理性の対象とはなり得ない。
ところで、明らかに、情念・意志作用・行為には(そもそも、それらに対応する観念などないので)そのような一致とか不一致とかを容れる余地はない。
これらは、それ自体で完結する原初的な事実・現実であり、ほかの情念、意志作用、行為とのかかわりを何ら含んでいないからである。
したがって、これらが真とか偽とか宣告されたり、理性に反したり理性と合致したりすることはあり得ないのである。
(しかし)すでに述べたように、厳密な哲学的意味では、理性は次の二通りの仕方でわれわれの行動に影響力を持ちうるだけである。
すなわち、理性が情念の固有の対象である何かあるものの存在についてわれわれに知らせることによってその情念を呼び起こす場合か、あるいは理性が原因と結果の結合を見出してある情念を有効に発揮する手段をわれわれに与える場合か、である。
こうしたことだけ(=理性は、情念を呼び起こす誘導をしたり、情念を発揮する手段を知らせたりすることだけ)が行為に伴いうる種類の判断、ともかく行為を生むと言われうる種類の判断である。
―――デヴィット・ヒューム『人性論』、世界の名著 中央公論社、第三篇518~520頁(ここまで)―――
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:ヒューム曰く、
「理性は情念の奴隷であり、またそれだけのものであるべきであって、理性は情念に仕え、従う以外に何らかの役目をあえて望むことは決してできないのである」、
「道徳は理性に起因しえない。道徳は情念を呼び起こし、そして行為を生じさせたり、妨げたりするところが、理性そのものはこの点について全く無力である」、
「道徳の規則は理性の規則ではない」
つまり、ヒュームは、理性の限界と理性の情緒に対する下位性という常識的な哲学的原理(=「人間は完全な理性を持つ存在ではない」=「反・デカルト、反・理性主義」)を明快に結論したのである。
これがヒューム道徳哲学の神髄の一つである。
【2010/06/26ブログ掲載】
保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(7)へ続く




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