保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(7) [政治]
―――――――エドマンド・バーク保守主義―――――――
―――――保守主義(哲学)の神髄―――――
E・バーク、A・ハミルトン/J・ジェイ/J・マディソン、
A・トクヴィル、オルテガ・イ・ガセット、F・A・ハイエク、
D・ヒューム、ギュスターヴ・ル・ボン ・・・
世界の偉大な保守主義(哲学)者からの現代日本国への警鐘
――7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(7)――
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―――D・ヒュームの道徳哲学(その1)についての、私〔=ブログ作成者〕の解説の続き―――
上記のヒュームの原理に従えば、人間が文明社会を完全に理解したり、未来の社会を理性によって設計したりできるなどという社会主義・共産主義思想がいかに人間本性から乖離した狂気であるかかがわかるであろう。
また、必然的に、デカルトの理性(合理)主義を引き継ぐ、ジョン・ロック(英)/ベンサム(英)/バブーフ(仏)/J・S・ミル(英)/ルソー(仏)/ヘーゲル(独)/コント(仏)/スペンサー(英)/オウエン(英)/サン=シモン(仏)/フーリエ(仏)/エンゲルス(独)/マルクス(独)/フロイト(墺)等の左翼・極左思想は、その前提が理性の完全性という虚構であるなら、虚構から、理性的な(合理的な)因果関係に基づいて得られる結論は、必然的に虚偽または虚構または空想となるし、現実にそうである。
ヒュームの結論によれば、理性が見出せるのは、「対象(=観念から別個の持続的存在=物質・事象)」と「対象間の因果関係・原因と結果の結合のみ」であるから、理性主義の適用範囲は、その学問の研究の前提条件が必ず理性的に真であると決定できる、数学や物理学や化学などの自然科学や機械工学や電子工学などの自然科学の応用分野に限定すべきである、と私は考える。
ヘーゲルの「歴史哲学」やマルクス/エンゲルスの「歴史科学」ように、「人間の歴史が理性や物質の弁証法的発展過程をたどる」とか、スペンサー社会学の「未来主義」や「進歩教の教祖」コンドルセやその直系の「熱狂的進歩教徒」のコントのように、「未来には人間は完成する」などの言説は、どう考えても正常ではない。
アニメ「ドラゴンボールのスーパーサイヤ人や人造人間セル」など、フィクションの世界なら、面白いが・・・。
例えば、
スペンサー「したがって理想的人間の究極的発展は、論理的に確実であり、・・・いわゆる不道徳なものは消滅するし・・・人間は完全になるのに違いない」(Spencer, Social Statics, D. Appleton, 1890 pp79~80.)
コンドルセ「自然は人間能力の完成に対して何らの限界も示さなかったこと、人間の完成は真に無限であること、この完成への進歩は、これを停止しようとするすべての権力とは爾来全く関係無しに、自然がわれわれを生んだ地球が存在する限りは限界を有せざること」(コンドルセ『人間精神進歩史』、岩波文庫、23頁)
コント「人類が住んでいる惑星(=地球)の状態が、乗り越えられない障害とでもならない限り、人類は絶えず進歩する文明を築き得る」(コント「社会組織に必要な科学的作業のプラン」、中央公論社、世界の名著第46巻、132頁)
「人間の精神は、科学や技術の発達において、最も優秀な知性の持主をも超越する所定のコースをたどる」(コント「社会組織に必要な科学的作業のプラン」、中央公論社、世界の名著第46巻、94頁)
私(=ブログ作成者)に言わせてもらえば、これらの学者ら?の言説は、そもそも人間は「完成した人間とは何か」の意味・内容を決して理論的(理性的)に定義できない、ということにおいて論理破綻している。
なぜなら、「決して定義できないもの」に対して、それが「完成する」とか、それが「有限・無眼である」とかの言説は、その言説自体が彼らの理性の異常性を明証しているのであるから、理性の異常者の唱える「理性の完成可能性」や「完成の無限性」など誰が信じようか?
上記に掲げた「理性主義」の思想家の著作を精神的に正常な人間が読めば、
〔→ただし、彼等は、その虚構や虚偽を隠すために、難解な用語を不必要に羅列したり、一般的な政治用語の意味を、用語名を変えずに独自の特殊な意味に変形して用いたり、転倒論理を駆使したりするので、その著作の本旨を見抜くには、読者が、正統な保守思想(哲学)を十分に所持していることが前提である〕
仮定や空想や妄想の連鎖からなる誤謬・妄論であることにすぐに気付く。
マルクス/エンゲルスの『共産党宣言』の最初の1行目を見よ。
「これまでのすべての歴史は、階級闘争の歴史である」という前提から既に、明白な虚偽・虚構・出鱈目である。
例えば、日本国の2000年以上の歴史において「階級闘争」など、皆無と言ってよい。
農民身分の武士身分に対する一揆などが、頻繁に起こったのは歴史事実であるが、それは、過重な徴税・徴発などを課された農民身分による、武士身分に対する抗議・抵抗運動であったのであり、その抵抗運動によって、農民身分が武士身分を打倒し、身分秩序を転覆させようなどと意図したことなど皆無であり、日本国の歴史事実に反する。
ただし、このことは、「日本国全体としての歴史事実」という「国家の歴史」を考察するという前提条件下での結論あって、あらゆる時代に日本国内のある地方で、そのような身分秩序の転覆を意図した闘争運動や事件が部分的にあったかもしれないことを否定するものではない。
人間は不完全であるから、日本国の一部に、そのような考えを抱く人間や集団がいて、そのような運動を行なった事実があったとしても、何の不思議もないし当然のことでさえある。
しかしながら、日本国全域・全体に及ぶような大規模な身分秩序の転覆運動・転覆闘争は、「日本国の歴史事実」の考察の結果としては「皆無」であり、「存在しない」という意味である。
言いかえれば、自己の哲学的イデオロギーに都合のよい、日本国のある時代のある一部の運動を抽出して、いかにもそれが、その時代の日本国全体の歴史運動であるかのように、こじつけ的・牽強付会的に解釈し、この牽強付会的な歴史解釈を歴史の時間軸にそって各時代について行い、繋ぎ合せ合わせ、歴史及び人間が「理性の発展法則〔=ヘーゲルの観念的弁証法〕やマルクス/エンゲルスの唯物弁証法などにしたがって発展過程をたどる」などというフィクションを創造する試みは、すべて「日本国の歴史事実」の考察としては虚偽・誤謬であり、ある種のイデオロギー的目的を達成するための「歴史の哲学的解釈」あるいは、「歴史のイデオロギー的誘導」にすぎないということである。
ヘーゲルの「世界精神」や、マルクスの唯物史観の「二大階級論」「階級闘争」とは、このフィクションの典型である。
ヘーゲルの『歴史哲学』における「世界精神」について、は歴史学者ランケに師事した、19世紀ヨーロッパ最大の歴史学者で保守主義者のヤーコプ・ブルクハルトが著書『世界史的考察』で、その誤りを痛烈に批判しているし、マルクスの二大階級闘争論については、スペインの保守主義者であるオルテガが『大衆の反逆』で述べているとおり、19世紀ヨーロッパは、世界史上まれにみる大繁栄の時代であり、プロレタリアートなる階級など存在しなかった。
ただし、ここでも同様に、プロレタリアートという貧困者からなる一つの階級層などは存在しなかったという意味であり、ヨーロッパ各地に貧困者が存在したという事実を否定しているのではない。
つまり、マルクス/エンゲルスの『共産党宣言』は、その一行目から、日本国以外のヨーロッパ諸国の歴史においても、一部分の事実から全体の事実を虚構し、歪曲しているのである。
ヨーロッパ全体としての観点から観た19世紀という時代は、貧困者・中間所得者・富裕所得者まですべての人間の混成状態であって、19紀以前のどの時代よりも最も裕福な時代であったとオルテガは言っているのである。
そしてそれ故に、大衆は自分の時代と自分たち自身を過去のどの時代よりも最も優れた、偉大なものだと錯覚し、過去への尊敬の念を忘却し、大金持ちの「慢心しきったお坊ちゃん」のわがままさと傲慢さを弄んでいると警鐘を鳴らしたのである。
話を戻して、上記のような「日本国の歴史事実」の考察については、江戸時代の職人(工)身分・商人(商)身分についても全く同様のことが言える。
むしろ日本国の歴史事実は、階級闘争などとは全く「逆さま」であって、昨今話題の、坂本竜馬(土佐)、中岡慎太郎(土佐)、西郷隆盛(薩摩)、大久保利通(薩摩)、小松帯刀(薩摩)、木戸 孝允(長州)、高杉晋作(長州)等々の幕末の志ある武士らによる明治維新によって、最上位にあった、武士身分が、天皇に大政を奉還し、身分制度も廃止してしまった(=四民平等)
〔→この身分制度の早急すぎる廃止が、武士身分であった者達の生活の糧を失わせ、明治政府への大いなる不満となったことと、おそらく身分制度廃止に大きな影響を及ぼしたであろう、ルソーの『社会契約論』の邦訳である中江兆民の『民約訳解』によるルソー主義等の日本国への相次ぐ闖入が重なって、その後の日本国内の社会主義運動の基礎を築き、運動を醸成していった〕
というのが、「日本国の歴史事実」である。
さらに言えば、平清盛にはじまり、武士が政権を握ってからも、それ以前も、日本国の国王たる天皇(皇室)の万世一系の世襲という伝統・慣習を全面破壊した統治者など、武士身分、公家(貴族)身分にかかわらず、日本国史上皆無であることも日本国民なら周知の事実である。
それゆえに、現在世代の日本国民も、天皇(皇室)という日本国の法・伝統・慣習を保守し、祖先と子孫への責任と義務を果たさなければならないのである。
神武天皇に始まり今上天皇に至るまでの約2670年に及ぶ歴史の各場面で、祖先らの果たしてきた義務と責任を、昭和・平成のわずか85年間の存在である、われわれ現代世代が放棄する権利など、露ほどもあるわけがないであろう。
「真に日本国の歴史を学ぶ」、あるいは「真に日本国の歴史から学ぶ」とは、過去からの連続性の観点(=祖先の声に耳を傾けること)から、現在世代のわれわれ日本国民の存在意義と責任と義務を知るということであって、受験勉強の如く、年代と歴史事実を丸暗記
〔→それが歴史事実の繋がりや動きを知り、学ぶための基礎であるから、それも重要なことであるのは確かである〕
することではない。
また、頑なに1937年~1945年までの8年間の大東亜戦争のみにこだわって、そこから一気に日本国の歴史全般や日本国民の国民性を肯定したり、否定したりすることなどできるわけがないであろう。
そのような態度をとる思想や哲学は、2670年に及ぶ日本国全体の歴史全体を、大東亜戦争の8年間という極めて微小な期間の日本国の歴史事実にすべて関連・関係させて拡大して歪曲する歴史解釈学であり、ヘーゲルやマルクスらの歴史解釈手法に近似していることは明白であろう。
そのような解釈をすれば(学べば)、日本国民でありながら、日本国と日本国民を呪詛する反日日本人が生まれるのは必然である。
ここでは、あまり詳しく触れないが、大東亜戦争からわれわれが学ぶべき事実は、以下のとおり。
①1920年代から1940年代に日本国を支配していた思想は、共産主義〔マルクスレーニン主義〕であったという事実
②政府や軍部〔特に陸軍〕はその思想に強度に汚染されていた事実〔コミュニストの近衛文麿内閣(第一次から三次)は日本国初の共産主義政権であった事実〕
③第一次近衛内閣の時点では「国家総動員法」も「統制経済」も全く必要がなかったのに強引に日本国を社会主義経済国としようとした事実
④統制経済政策によって多くの日本国民の経済的自由が拘束されたこと
⑤第三次近衛内閣時に大政翼賛会が結成され、日本国の全体主義体制・軍国主義体制の条件が整ったという事実〔=明治憲法による立憲主義・法の支配の消滅〕
⑥対英米戦争の開戦直前まで外交的・平和的解決を訴え続けられた昭和天皇の聖慮を無視して、御前会議において、政府と軍部が昭和天皇の聖慮を押し切る形で戦争開始準備の決定をしたという事実
⑦対英米戦争の戦争計画の極度な杜撰性
⑧帝国陸軍参謀本部総長、帝国海軍軍令部総長・帝国海軍司令長官、司令官らの戦術と戦略における知識の欠如
⑨帝国海軍と朝日新聞などの報道機関による、戦果の虚偽(出鱈目)報道と昭和天皇への虚偽報告。
この戦果の虚偽報道と虚偽報告の出鱈目さは凶悪であり、例えば1943年末時点までに、帝国海軍が発表し、朝日新聞などの新聞紙上で報道された、帝国海軍による米海軍の正規空母の撃沈隻数の合計は26隻、巡洋艦の撃沈隻数は79隻である。
ところが、米国海軍の正規空母保有隻数は14隻、巡洋艦の保有隻数は56隻である。
つまり、帝国海軍は、米国の保有正規空母と保有巡洋艦をすべて撃沈した上に、さらに上乗せして幻の正規空母12隻、幻の巡洋艦23隻を撃沈したことになる。
しかも実際に日本が撃沈した隻数は正規空母4隻と巡洋艦8隻のみであった。〔中川八洋『山本五十六の大罪』、弓立社、128~139頁〕
⑩生還率0%という狂気の特攻攻撃の発案と命令の狂愚
⑪ポツダム宣言を受諾するか否かの御前会議において、政府と軍部は「即時停戦派」や「一憶総玉砕派」と「ソ連仲介頼み派(代わりに日本国領土の切り売りの土産付き)」などに分裂して紛糾し、結論が出ず、最終的には、これまで、その聖慮を一切無視して戦争を遂行してきたにも関わらず、いざ目の前まで敗戦の現実という恐怖が及んでくると一転して昭和天皇にすがりついて判断を仰いだ。
そして「場合によっては、天皇退位もやむをえず」の覚悟を決められた昭和天皇の「ポツダム宣言受諾」という“終戦の英断”に頼らざるを得なかった、日本国政府と軍部の無責任と卑怯と知的頽廃。
大東亜戦争が「侵略戦争であったか、自存自衛の戦争であったか」の議論は、自らの命を犠牲にしても祖国を守らんとして、散華した200万人以上の勇士達の英霊に哀悼の意を表する上で重要なことであるのは理解できるが、上記の政府や軍部将官の悪行とそれを惹き起した当時の日本国で支配的であった腐敗精神・腐敗思想の根源に対して、現在のわれわれ世代の日本国民自身が裁きを下し、厳罰を与えることなしに、大東亜戦争に正当性を附与してしまうことは、逆に英霊の魂を逆撫でするのではなかろうか、と私は考える。
この腐敗思想〔=社会主義・共産主義(マルクス・レーニン主義)〕は、戦前から戦後の現在に至るまで、悪人として裁かれるどころか、無罪放免されたがゆえに、善人顔で勢いを増して日本国及び日本国民の内的精神を腐敗させ続けている。
以上のことから、ヒュームの箴言に日本国民は拳々服膺すべきである。
“道徳”は決して「理性」から発するのではない。
ゆえに、合理的に設計された社会が、道徳の満ちる社会になるわけではない。
ゆえにマルクス主義によって合理的に制度設計されたはずの共産ソ連という科学的社会主義のユートピアは、現実には、空想であり(=理性の手に負えず)、無道徳の暗黒社会にならざるを得なかった。
やはり、次のヒュームの結論は正しいであろう。
「理性は情念の奴隷であり、またそれだけのものであるべきであって、理性は情念に仕え、従う以外に何らかの役目をあえて望むことは決してできないのである」
「道徳は理性に起因しえない。道徳は情念を呼び起こし、そして行為を生じさせたり、妨げたりするところが、理性そのものはこの点について全く無力である」
「道徳の規則は理性の規則ではない」
【2010/06/27ブログ掲載】
保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(8)へ続く




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