保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(16) [政治]
―――――――エドマンド・バーク保守主義―――――――
―――――保守主義(哲学)の神髄―――――
E・バーク、A・ハミルトン/J・ジェイ/J・マディソン、
A・トクヴィル、オルテガ・イ・ガセット、F・A・ハイエク、
D・ヒューム、ギュスターヴ・ル・ボン ・・・
世界の偉大な保守主義(哲学)者からの現代日本国への警鐘
――7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(16)――
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―――F.A.ハイエク『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、春秋社、52~53頁(ここから)―――
● 主権についての設計主義的迷信
人民の多数派〔あるいは人民によって選出された代表者〕は、(その多数派が)合意できることはどんなものであれ、自由に(立法し)布告できるべきであり、この意味において、彼ら(=多数派)は、全能であるとみなされねばならないという考え方は、(ルソーの『社会契約論』の)人民主権という考え方と密接に関係している。
その誤りは、存在するどんな権力も人民の手にあるべきであり、しかも人民の願望は、多数決によって表現されなければならないだろうという思い込みにあるのではなく、この根本的な権力源(=人民が握る権力の起源・源泉)が無制限でなければならないという(誤った)思い込み(=迷信)、すなわち主権概念そのものにある。そのような無制限の権力源のいわゆる論理的必然性はまったく存在しない。
・・・そのような必然性に対する思い込み(=迷信)は、人的制度の形成について、その(=人的制度の)すべてをある独創的な設計者
(=デカルトの完全理性を持つ人間/設計主義的合理主義的『方法序説』、ルソーの立法者の一般意志=全人民の意志『社会契約論』等)、
あるいはなにか他の計画的な意志行為
(=ヘーゲルの世界精神『歴史哲学』、マルクス『資本論』/エンゲルス『自然の弁証法』『反デューリング論』の唯物弁証法/唯物史観等)
に由来するものだとしようとする誤った設計主義的解釈の産物なのである。
しかしながら、社会的秩序の基本的な源泉は、(ある独創的な設計者か、何か他の意思のみに可能な、)一定の共通ルール(=共通の行動ルール)を採用する計画的な決定に(あるの)ではなく、(多数の)人民のあいだに何が正しくて(何が)正しくないのかについて一定の意見が存在するということにある。
大きな社会を可能にしたのは、行動ルールを計画的に課したことにではなく、そのようなルールの一般的な遵守の結果がどのようなものになるかなど、ほとんど考えもしなかった人々のあいだで、そうしたルールが発展したことにある。
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(→私〔=ブログ作成者〕の解説:国際社会において国家が最高権力の主体であるという意味の「国家主権」を除いて、“法の支配”や“立憲主義”を大原則とする自由主義国家の国内政治(内政)において、「主権」などというものは、誰にもどのような機関にも存在し得ない。
大きな社会の形成を可能にした社会秩序とは、ある「独創的な設計者」や「計画的な意思行為なるもの」のような「主権者」が個々の国民の共通の行動ルールを設計(=理性的に考案)して、計画的に人民に課したものではないし、そのようなことは、不可能である。
そうではなくて、人びとの間で、事あるごとに、何が正しくて、何が正しくないかについての一定の意見(=了解)を採りつけ、それを遵守することの積み重ねが、自然的にルールを成長・発展させるのである。
冷静に考えれば、自明のことなのであるが、多くの日本国民も国会議員もこれが皆目解ってない。
つまり、過去の2000年以上の日本国の歴史のそれぞれの場面で、その時代の国民が一定の了解を得たルールが自然成長的に世襲されて、われわれ現在世代もそれを拳々服膺して遵守すべきルールが、“法”つまり“日本国法”であるから、日本国法の下にある日本国民とその代表者たる国会議員の立法権力は、“日本国法の下の支配”を受け、“日本国法”の制限を受けるのである。
であるから、国会の持つ立法権力は“日本国法(=憲法)”による制限下にあり、日本国法に背反する立法行為は行なえない。
つまり、立憲主義とは、①(最上位)日本国法(=不文憲法)→②(第二位)成文憲法(※上記により、本来、成文の日本国憲法は上位の“日本国法”の根幹部分を成文化した制定法でなければならない。つまり、成文の日本国憲法は、日本国固有の国の在り方を明記しなければならない。
この意味において、現在の日本国憲法は、GHQ民政局の起草という憲法制定過程および内容ともに、“日本国法”の成文化とは言えない。
正統な憲法改正論とは、このような“法”思想・憲法原理に基づいてその改正の必要性を訴えることに限り、憲法改正の「正」の根拠を持つのであって、それ以外の目的・趣旨に基づく改憲論や改正試案は必然的に「改悪」になる。
これが憲法と憲法改正論の正論なのであるが、現行の日本国憲法は、上述のように「起草者や制定過程や内容」に如何なる不備があろうとも、戦後の日本国の最高法規であるのは現実であるから、日本国民は現行憲法の規定に従って憲法改正が行なわれるまでは、現行の日本国憲法の規定を遵守しなければならない。
しかし、日本国民は、早期に“日本国法”の成文化である“真の日本国憲法”へ“改正”するための真剣かつ現実的な行動をしていかなくてはならない。
③また、日本国憲法の規定により、法律は憲法の支配下(下位)にある立場、つまり、「憲法に反する立法は無効である」とする“立憲主義”の立場をとっていることを鑑みれば、国会の立法権力は日本国憲法に制限されることは自明の原理である。
ところが、この約一年間の民主党の行なった、あるいは行なおうとした立法は、立憲主義などどこ吹く風で、多数決原理主義〔=国会主権・多数者の専制権力〕の様相を呈しており、民主党が今回の参議院選挙で勝つようなことがあれば、彼らは、一層傲慢になり、今後、さらに一層、反憲法の立法を繰り返し、日本国は最悪の状態に陥るであろうと、私〔=ブログ作成者〕は予告しておく。
なお、現行の日本国憲法の憲法改正条件は極めて高いハードルであるから、日本国憲法の早期改正実現のためにも、多くの日本国民が「国家の憲法とはいかなるものか」、「何故改正が必要なのか」、についての上記の「真正保守主義による正しい憲法の定義」に関する根本思想は、理解して頂きたいものである)
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(ここから、ハイエクの本文に戻る)
全権力は、先在する意見に依拠し、そうした意見が支配する場合のみ存続するので、この権力の人的源泉もそれを創出した計画的意思も存在しない。
主権概念は、現行のルールや制度がその創出を目指す一定の意思に由来する、という初期仮定から出発する誤った論理構成に依拠している。
だが、(全権力は)自ら好むどんなルールをも人民に課すことのできるそのような先在意思から生まれる(ことはなく、それ)どころか、自由人の社会は次のことを前提とする。
すなわち、全権力は自由人を結合させた共通の信念によって制限され、しかも合意のないところに権力はない、ということである。
政治単位が征服によって創出される場合を除いて、人民が権威に服従するのは、その権威に好きなことをする権能を与えるためではなく、誰かがある共通の正義概念に従って行動してくれる、と彼らが確信するからである。
最初に社会があって、それからその社会が自らにルールを与えるのではなく、散在するさまざまな集団をまとめあげて一つの社会のするのは(=するのが)共通のルールなのである。承認された権威に対する服従関係は、その権威の権力の恒久的な制限となる。なぜなら、そうした関係こそ国家統一の条件であり、また存在の条件でさえあるからである。
そして、こうした服従関係は、自由主義の時代にあっては、承認された正しい行動の一般的ルールを施行するためにのみ強制をもちいることができる、というように理解されていた。
全権力の源泉である無制限の意思が存在しなければならないという考え方はある仮説――法実証主義
(=「人定法主義(Law positivism)」=手続きがルールに合致してさえいれば、いかなる内容のものも、つまりユダヤ人虐殺目的の1935年の『人種法令』のような極悪法でも、「法律」として制定できるという思想)
の誤った仮定によって必然とされたが、忠誠の実際の源泉には関係のない仮説――である設計主義的な人性化の結果である。
―――F.A.ハイエク『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、春秋社、52~53頁(ここまで)―――
→私〔=ブログ作成者〕の解説:上記のハイエクの論理を簡潔に私流に説明すれば、次のとおりである。
例えば、ルソーの『社会契約論』の契約国家とは、次のようなものである。
ルソーは言う。
「(国家の)各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」
「われわれのだれもが、自分の身体とあらゆる力を共同にして、一般意志の最高の指揮のもとにおく。そうしてわれわれは、政治体をなすかぎり、各構成員を全体の不可分の部分として受けいれる」
「執政体が『お前の死ぬのは、国家のためになる』と言えば、市民は死ななければならない。それまで彼が安全に生活してきたのは、そういう条件においてのみであり、その(=市民の)生命はもはや単に自然の恵みでなく、国家の条件付きの贈り物であるからである」
「もし何人かが公然とこれらの教義を認めながら、それらを信じないかのような行動をするとすれば、死をもって罰せられるべきである」
つまり、ルソーの社会契約とは、国家の各人が自らの「生命・私有財産・自由・自由に基づく他のすべての権利」を共同体(=国家)に譲渡する契約であり、それ以上でも以下でもない。
そして、各国民の自由と権利のすべてを譲渡された共同体の「立法者」(=ルソーの用語)のみが、国家のすべてのルールである「一般意志」(=ルソーの用語)を発する源泉であり、共同体の構成員である各国民は、「立法者」の命令である「一般意志」(=法律・政令・規則など)に従う義務がある。
なぜなら、各個人は「立法者」にすべての自由と権利を譲渡する契約をしたから、「立法者」の発する「一般意志」は「全人民の意志」に他ならないからである、という詭弁である。
ルソーはこのような国家を「人民主権」の国家すなわち「契約国家」と定義したのである。
これが「人民主権」、「社会契約」の真実の原義である。
読者の皆さんが、中学生時代に学校の社会科で社会科の教師に教わった似非「ルソーの社会契約論」と随分話しが違うのではないだろうか?
それは、その教師が日教組系の社会主義者・共産主義者であるか、彼自身が『社会契約論』を読んでいないか、読んだが、能力の低さ故に読解できなかったためであろう。
このような契約国家を建設し、立法者による独裁的全体主義国家を現実の文明社会において実現したのが、1789年のフランス革命のジャコバン党=立法者であり、1917年のロシア革命のボルシェヴィキ(ソ連共産党)=立法者であり、ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)=立法者である。
1925年の日ソ基本条約(ソ連との国交回復)以降の日本国の政府および帝国陸海軍もマルクス・レーニン主義の蔓延と汚染によって同様の全体主義的な体制へと暴走したが、唯一、前3者と決定的に異なるのは、天皇(皇室)と皇祖皇宗の遺訓と天皇の権力を制限した明治憲法(第五十五条第二項)による立憲君主制が存在したことである。
しかしながら、政府と帝国陸海軍は、これらの日本国法を無視する姿勢を強め、ついに1941年に昭和天皇の強い戦争回避と外交解決の聖慮を排して対英米戦争に突入して行ったのである。
また、明治憲法のどこにも「主権」なる二文字は存在しないし、第五十五条第二項で「すべての法律勅令そのほか国務に関する詔勅は国務大臣の副署を要す」と定められている。
ゆえに明治憲法下の天皇は、独裁的ないかなる法律も命令も発することができなかったのであり、法律制定権・命令発出権のない「立法者」など存在し得ないから、「天皇主権」など存在し得ないのであって、そのような主張は、無根拠のでっちあげである。
このでっちあげは、東大法学部の憲法学教授である上杉真吉、宮沢俊義らに極めて重大な責任がある。このことの詳細については、いずれ本ブログ上で述べることとする。
少し話が脱線したが、ハイエクが「主権概念は、現行のルールや制度がその創出を目指す一定の意思に由来する、という初期仮定から出発する誤った論理構成に依拠している」と述べているのは、このような「立法者の意志はどのようなものであってもルールであり、各国民はそれに服従しなければならない」とか、「ルールの源泉は立法者のような特別な無制限の権力者(集団)のみが所有する」などという迷信が「主権」という妄想であり、それは「思い込みの産物」である、ということである。
逆に、ハイエクは「自由人の社会は次のことを前提とする。すなわち、全権力は自由人を結合させた共通の信念によって制限され、しかも合意のないところに権力はない」と述べている。ここでの「共通の信念」とは、ルソーの「社会契約」とは異次元の概念である。
自由人の「共通の信念」とは、各自由人が、集団社会を形成していく過程において、各人の自由や権利を最大限公平に保障・擁護するために、遵守することを相互に合意した共通ルールのことであり、ルソーの社会契約による各個人の自由と権利の喪失(=共同体の立法者への全面譲渡)とは、その趣旨・目的において正反対の概念である。
前者は、「自由と権利の保障・擁護のため(=自由主義社会)の共通ルール」であり、後者は「自由と権利の喪失と立法者への譲渡(=平等主義・全体主義)というルールの契約」であると言いかえることもできよう。
そうであるから、集団社会の権力は、「共通の信念」を遵守しない限り、自由人の自由と権利を侵害することになり、集団社会は機能しない。
また、逆にそのような無制限の権力は、自由人の社会形成の「共通の信念」として共感されず、合意されることはない、ということである。
ハイエクの
「最初に社会があって、それからその社会が自らにルールを与えるのではなく、散在するさまざまな集団をまとめあげて一つの社会のするのは(=するのが)共通のルールなのである。承認された権威に対する服従関係は、その権威の権力の恒久的な制限となる。なぜなら、そうした関係こそ国家統一の条件であり、また存在の条件でさえあるからである」
というのもこのように考えれば、すっきりと理解できるのではないだろうか。
要するに、自由主義国家では、その国家の各国民の自由と権利を必然的に侵害するに至る、「主権」などという「無制限の権力」なる概念は、存在し得ない迷信であるから、現実社会にも存在させてはならない、ということである。
現世代の多くの日本国民が、「国民主権」を天下玉条のごとく口にするが、それは言いかえれば、「各国民一人一人が、無制限の権力を持つ専制君主である」と言っているのと全く同義であり、完全なる誤謬である。
正確には、日本国民は、日本国の象徴である天皇の権威の下にある、日本国の権力の起源・源泉であるが、その権力は“日本国法(真の日本国憲法)”に制限された権力主体である、というのが正解である。
【2010/07/08ブログ掲載】
保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(17)へ続く




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