近衛文麿【共産主義政権】が主導した大東亜戦争の真実(第三回) [政治]
◇ 1937年7月11日 「北支派兵」声明
◇ 1938年1月16日 「国民政府(蒋介石)を対手とせず」声明
◇ 1938年5月 5日 国家総動員法施行、電力国家管理法施行
◇ 1938年11月3日 「東亜新秩序」声明
【国家総動員法、電力国家管理法】
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世界の外交史上最も奇怪にして狂気の・・・「国民政府〔蒋介石〕を対手とせず」声明(1938年1月16日)を発表してまで日中戦争の終結を阻止したのは、日本の国会において審議中の国家総動員法の通過〔採択〕を援護するのも近衛文麿の目的の一つであった。
当時、陸軍の資源局が企画庁と合体して発展した企画院〔1937年10月設置〕が「国家総動員法」案を起草し、翌11月にはこの「国家総動員法案要綱」が一部の新聞にリークされていた。
そして、その直後から、国内ではこの「国家総動員法」に反対する勢力の猛反発が展開されていた。
「国家総動員法」は、明治憲法が定める議会制民主主義と「天皇の大権」のいずれをも無視する、つまり明治憲法を棚上げ無力化する恐れのある「前例のない広範な委任立法」〔民政党、斉藤隆夫〕であって、それはヒットラーの全権委任法〔1933年3月〕のミニ版と言えるものであった。
だから、仮にこの近衛文麿の「国民政府を対手とせず」声明がなければ、陸軍の「速戦速決」の早期終結論も強く存在していたから、「不磨の大典」たる明治憲法を無視するようなこの「国家総動員法」の必要性・緊急性の理屈は薄弱となり、これが衆議院・貴族院ともに通過する可能性などまったくなく廃案になるのはまず間違いなかった。
このような状況にあって、この「国家総動員法」案を強引に国会〔第七十三通常国会〕通過させるには、日中戦争そのものが長期化する新情勢を創る必要があり、近衛文麿はその極めつけの方策として「国民政府を対手とせず」声明を出したのである。
近衛はそれから1週間後の1月23日に「法案要綱」を公表し世論の動きのチェックと世論工作をして、翌2月19日にこの法案を衆議院に提出した。衆議院・貴族院でこの法案を廃案にしようとする動きを封じるのに近衛はあらゆる術策を弄したのである。
たとえば、貴族院では「支那事変にはこの法律を適用しない」との嘘まで言明する始末だった。
近衛は〔4月1付の〕(法律)公布から1カ月しかたっていない(1938年)5月5日に自分のこの言明どこ吹く風と、支那事変に適用すべくこの法律を施行してしまった。
また、電力の国家管理の法律もこれと同時に成立した。かくして、この1938年の春、日中戦争開始から1年もたたないのに、労働力・物資・価格・金融・事業を国家が統制できる「国家総動員法」と電力の国家管理法の、二つの法律が成立したのである。
これによって、日本はついに計画経済体制への道を走り出した。この1938年末までにはこの「国家総動員法」は全面的に発動された。それはまた日本の社会主義化・全体主義化の道の始まりであった。
・・・なお、この国家総動員法と電力国家管理法は、スターリンの「第一次五カ年計画」〔1928~1932年〕を模倣するものであったから、この両法律の成立は日本の社会主義国への改造に向けての一大スタートの記念碑でもあった。
(以上、中川八洋『近衛文麿とルーズヴェルト---大東亜戦争の真実』、PHP研究所115~117頁より)
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(今回)→近衛文麿【共産主義政権】が主導した大東亜戦争の真実(第3回)
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