英米との友好と同盟の絶対は、昭和天皇の遺訓である(1941年9月6日御前会議についての真実) [政治]
(正しい歴史知識)
「英米との友好と同盟の絶対は、昭和天皇の遺訓である」
(1941年9月6日御前会議における対英米戦争の開戦準備決定の真実)
読者の皆さんは、なぜ昭和天皇は、1941年9月6日の御前会議において、対英米・蘭戦争の事実上の開戦意思である国策決定に対し、明治天皇の御製を拝誦しただけで、直接的に「ベトー(veto)=君主が大権をもって拒否または拒絶する」と発言されなかったのか?本当は昭和天皇も対英米開戦に賛成であったのではないか?と疑問を抱くだろうから、そのような誤解に対してきちんと解説しておく。
①昭和3年(1928年6月4日)張作霖爆死の件
(昭和天皇)『この事件の首謀者は河本大佐である、田中(義一)総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾なことで、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云う事であった。
そして田中は、牧野(伸顕)内大臣、西園寺(公望)元老、鈴木(貫太郎)侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考だと云つたそうである。
然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云う議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つた。
そこで、田中は再ひ私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。
こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。
聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云うことになつたと云ふのである。
田中内閣は右の様な事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」と云ふ言葉を作り出し、内閣の倒(こ)けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至つた。
かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とかいふ、いやな言葉や、これを間(真)に受けて恨みを含む一種の空気が、かもし出された事は、後々まで大きな災を残した。かの二・二六事件もこの影響を受けた点が尠(すくな)くないのである。
この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令(たとえ)自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した。
例へば、かの「リットン」報告書の場合の如き、私は報告書をそのまま鵜呑みにして終ふ積りで、牧野、西園寺に相談した処、牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのは面白くないと云つたので、私は自分の意思を徹することを思ひ止まつたやうな訳である。
田中に対しては辞表を出さぬかといつたのは、「ベトー(天皇大権による拒否・拒絶)」を行つたのではなく、忠告したのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、「ベトー」は云わぬ事にした。』(『昭和天皇独白録』文藝春秋、26~31頁)
(私のコメント)➡昭和天皇が直接的に「辞表を出してはどうか」と強く言ったことで、田中義一内閣は総辞職したが、その二カ月後に田中義一は急性の狭心症で急死した。
西園寺公望に、「英国式の立憲君主制の下では自分の意見を直接に表明すべきではない」と戒められた昭和天皇は、このこと以後、次第に政府や軍部の決定がたとえ自分の意見と違っても、自らの意見は述べるが、直接的な「不可」を表明しないことにされたのである。
②御前会議と云ふもの
(昭和天皇)『所謂(いわゆる)御前会議といふものは、おかしなものである。
枢密院議長を除く出席者は全部既に閣議又は(大本営)連絡会議等に於て、意見一致の上、出席しているので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長只一人であって、多勢に無勢、如何ともし難い。
全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権は、ない。』(『昭和天皇独白録』文藝春秋、56~57頁)
(木戸幸一内大臣)『国務大臣の輔弼によって、国家の意志ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。
そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。
これが、日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である』(東京裁判での木戸幸一内大臣の証言)
(私のコメント)➡御前会議は、昭和時代に入ってから、大東亜戦争開戦までに計8回開かれているが、この8回の御前会議のうち、昭和天皇が会議中に発言されたのは、ただ1回だけ(1941年9月6日の御前会議での「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」の拝誦と拝誦後の「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めておるものである」)である。
他の7回においては、昭和天皇は無言のうちに国策を裁可した。なぜならば、上記の昭和天皇のお言葉や木戸幸一内大臣の発言の通り、「一度政府で決定した後に持参する議案に対しては、立憲君主としての天皇は、これを拒否しない」とういう憲法運用上の慣習法を遵守してきたからである。
だからこの事実を裏返して言えば、極めて重要な意味が抽出される。
ただ1回だけ声高らかに、明治天皇の御製を拝誦された1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」における対英米戦争に向けた開戦準備決定(=御前会議決定)が、「昭和天皇にとって、全く御意志に反するものであり、受け入れがたいものであった」という事実を痛烈に物語っているのである。
この事実は、昭和天皇が「対英米戦争反対、外交努力による平和的解決」を強く望んでおられたことの最も明白で確かな証拠である。
また、昭和天皇の戦争責任についても、未だに国民感情的には様々な意見があるのは解らぬでもないが、日本国は“立憲主義国”であったのであるから、天皇の戦争責任はあくまで大日本帝国憲法(明治憲法)に則して判断されるのが“立憲主義”の基本原理である。
大日本帝国憲法(明治憲法)
第三條
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
⇒この規定は明治憲法固有のものではなく、ヨーロッパ諸国の立憲君主国における君主の無答責を定める、ごく平凡な表現の条項にすぎない。
その文言はベルギー憲法などを模倣したもので、世界共通の普遍的表現である。例えば、ベルギー憲法 第六十三条、「国王の一身は、侵すことができない」、スウェーデン憲法 第三条、「国王の身体は神聖である」などである。
しかし、1942年(昭和17年)の宮沢俊義(東京帝国大学法学部教授)の著『憲法略説』は、天皇主権論の上杉真吉(東京帝国大学法学部教授)を超える「神勅主権」論を展開する。
「(憲法第三条は)天皇が神の末裔として、現人神としてこれを統治し給ふとする民族的信念の法律的表現である。神皇正統記の著者が<大日本は神国なり>と書いた所以もここに存する」とまで言う(※1)。(宮沢俊義『憲法略説』岩波書店、81頁)
第五十五條
國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス
結論的には、立憲君主制の下での御前会議の形式性とこの明治憲法二条文の存在において、天皇の戦争責任は一切、問われない。責任はすべて国務大臣が負うこととなるのである。
(※1)
私は、保守主義の哲学シリーズ(バーク保守主義:Ⅲ-7-4)において次のように述べた。
(抜 粋)
なお、『古事記』『日本書紀』について、現代(=戦後)日本人が抱いている次のような大誤解について若干説明しておく。
<誤解①>『古事記』や『日本書紀』が天皇を神格化したため、大東亜戦争で「現人神」信仰で多くの日本人が天皇のために犠牲になった。
<誤解②>対英米戦争のために、『東亜新秩序』『大東亜共栄圏』などの精神的支柱として、『日本書紀』の「八紘為宇」という文言が利用された。
上記の誤解が、「そもそも論」として間違っているのは、
㋑『古事記』や『日本書紀』に「天孫降臨」や「八紘為宇」記述があることと、
㋺それを戦争目的に利用するという行為
は全く異次元の世界の話であって、責められるべきは、天皇でも『古事記』でも『日本書紀』でもなく、「それらを曲解して、戦争に利用した行為者」である。
こんなことは、小学生でも解ることであろう。このこと自体において「上記の①②の誤解・疑問を抱くこと自体が論理破綻」している。誤解①②の回答は上記一文のみであって、それ以上でも以下でもない。が、これだけでは不服な者もいるだろうから、少し補足しておく。
神話では邇邇芸命(ににぎのみこと)が「天孫降臨」する時、天照大御神から
①天壌無窮(てんじょうむきゅう)
②宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)
③斎庭の稲穂(ゆにはのいなほ)の「三大神勅」を賜ったが、これが天皇の“神性”が発する所以である。
このうち、③斎庭の稲穂(ゆにはのいなほ)の神勅は『日本書紀』巻二(神代下大九段)の第二の「一書(あるふみ)」に「吾(=天照大御神)が高天原に所御(きこしめ)す斎庭の稲穂(ゆにはのいなほ)を以て、また吾が児(みこ)に御(まか)せまつるべし」とあるのがそれで、新嘗祭(にいなめさい)は、この神話を根拠にして行われている。
また、歴代の天皇は即位の礼の後に五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る大嘗祭(だいじょうさい)の時、邇邇芸命(ににぎのみこと)と同魂胴体となるとされているが、邇邇芸命(ににぎのみこと)は天照大御神から稲作の使命を授かって豊葦原の水穂の国に降臨したのであるから、邇邇芸命(ににぎのみこと)と同魂胴体となった天皇は、毎年稲作をして天照大御神への復命・報告をされなければならないのである。
すなわち、『古事記』『日本書紀』の高貴な精神性を畏敬するならば、大嘗祭を終えた天皇が邇邇芸命(ににぎのみこと)と同魂胴体となり、稲作をされ、その初穂を天照大御神に奉納する新嘗祭を行われている「天皇の神性」は、
①『古事記』『日本書紀』の神話という明文化された書物が存在すること
②その書物の中で、初代の神武天皇が天孫降臨した邇邇芸命(ににぎのみこと)の曾孫であること
③初代の神武天皇(B.C.660年即位)から二千六百年以上の間に万世一系の世襲の時効が成立している。
④古代日本の祖先から現在の日本国民まで、日本国民自らが世襲による皇位継承を承認してきたという事実
⑤ ④の事実を世襲(相続)した現世代及び将来世代の日本国民による皇統の世襲承認義務
において「日本国及び日本国民の自明の原理」である。
・・・では日本国民は、天皇が「現人神」であるか否かをどう考えるべきか。
答えは簡単で、信教の自由である。
『古事記』や『日本書紀』を読んで、感嘆する日本国民は天皇を「現人神」と考えたらよい。逆に『古事記』や『日本書紀』を読んで、くだらない作り話だと思う日本国民は天皇「現人神」でないと考えればよい。
しかし、重要なのは、日本国民にとって天皇は「神聖」であるか否かと問われれば、答えは「神聖である」しかない。
それは、『古事記』や『日本書紀』の天孫降臨までを物語で作り話であると割り切ったとしても、初代の神武天皇以来、万世一系の皇統は二千六百年間継続している事実が歴然とあるため、その地位と身体は「神聖にして侵すべからず」である。
いわゆる、バーク保守主義の「世襲の時効」である。
そして先にも述べたとおり、日本国民の側からしても
①古代日本の祖先から現在の日本国民まで、日本国民自らが世襲による皇位継承を承認してきたという事実
② ①の事実を世襲(相続)した現世代及び将来世代の日本国民による皇統の世襲承認の義務の理由から天皇の地位と身体は「神聖にして侵すべからず」の結論しか存在し得ないのである。
つまり、要約すれば、『古事記』『日本書紀』の「日本神話」を読んでその高貴な精神性に感嘆し、神話を信じる日本国民は、邇邇芸命(ににぎのみこと)の曾孫にあたる初代・神武天皇から二千六百年以上にわたる万世一系の天皇が「現人神」と思えるかもしれない。
逆に神話はあくまでも作り話であって、それをもって天皇が「現人神」であると言うのは狂気であると思う日本国民は、それはそれで自由なことである。
逆に、「天皇が現人神である」と政府が日本国民に強制することは、信教の自由に反する違憲行為である。
しかし、天皇が「神聖であるか否か、あるいは、天皇が畏敬すべき対象か否か」と問われれば、「日本神話」の真偽に関係なく、初代・神武天皇からの二千六百年以上にわたる万世一系の皇統の「世襲の時効」により、天皇は「神聖であり、畏敬すべき」存在なのである。
であるから、大日本帝国憲法(明治憲法)「第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」は万世一系の皇統の世襲の時効に起因するものなのであって、『古事記』や『日本書紀』の「日本神話」の記述の真偽と何ら背反しないのである。
しかし上記の宮沢俊義の第三絛の解釈は、国民の信教の自由であるはずの「日本神話」の記述の真偽について、「天皇=現人神は、疑いようのない真実である、国民はそれを信じなければならない」という強制的な解釈であり、狂気の解釈である。このような意味は第三絛には全くない。
このような解釈を東京帝国大学教授が為す事実は、東京大学法学部(憲法学)教授の知的レベルの低さと国民を煽動する悪質さの証左である。
このような行為を私は、先のブログで、
㋑『古事記』や『日本書紀』に「天孫降臨」や「八紘為宇」記述があることと、㋺それを戦争目的に利用するという行為は全く異次元の世界の話であって、責められるべきは、天皇でも『古事記』でも『日本書紀』でもなく、「それらを曲解して、戦争に利用した行為者」である、と言ったのである。
明治憲法を起草した伊藤博文や井上毅も現人神や神勅など一言も述べていない。宮沢俊義が戦後の憲法学界を牽引したというのだから話になっていない。
少し脱線したが、話を元に戻す。
③立憲君主
1979年8月29日、天皇陛下は静養先の那須御用邸で、宮内記者会の記者団と高齢の会見をし、皇太子時代の大正十年、ヨーロッパ旅行のときの思い出話を披露、英国皇室に学んだことを強調された。
(記者)この(大正十年)ご訪欧は、陛下のその後の生活やお考えに大きな影響を与えたということですが、具体的にお話し下さい。
(昭和天皇)『何といっても英王室訪問で、ちょうど私の年ごろ前後の人が多く、(家族同様のもてなしを受け)私の第二の家庭というべき状態でした。
ジョージ五世から立憲君主のあり方について親切な話をうかがい、それ以来、立憲君主はどうすべきか(が)私の頭にありました。立憲君主であることが私の終生の考えの根本です』(「読売新聞」1979年8月30日)
(私のコメント)➡昭和天皇にはすでに大正十年の御訪欧以来、「日本の天皇は立憲君主である」という認識をしっかりと持っておられたということである。
このことを踏まえれば、「②御前会議と言うもの」で示した、
『国務大臣の輔弼によって、国家の意志ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが、日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である』
という、東京裁判での木戸幸一内大臣の証言の信頼性はなお明確になる。
以上①、②、③の理由から昭和天皇は、1941年9月6日の御前会議での対英米・蘭戦争に向けての「帝国国策遂行要領」決定に明治天皇の御製を拝誦しただけで、直接的に「ベトー(veto)=君主が大権をもって拒否または拒絶する」と発言されなかったのである。
しかしながら、8回の御前会議のうち、7回は無言のうちに国策を裁可されたが、1941年9月6日の御前会議ただ1回だけ声高らかに、明治天皇の御製を拝誦されたのは、『昭和天皇の対英米戦争反対・外交努力による平和的解決の強い意志を立憲君主の立場として、最大限の手段で表現された』という証左なのである。
なお、昭和天皇が、明治天皇の御製「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさはぐらむ」を拝誦して「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めておるものである」と仰せられた時、満座粛然、しばらくは一言も発する者がいなかったという。
また、この昭和天皇の一言は、陸軍を震撼させ、東條陸相は「聖慮は平和にあらせられるぞ」と叫び、杉山参謀総長は蒼ざめた顔面を小刻みに痙攣させていた。
しかし政府つまり、純度100%のコミュニストであった近衛文麿首相は、「コミンテルン32年テーゼ」実行のため、原案の廃案はおろか、改訂すら実行しなかった。
これが、1941年9月6日の御前会議における対英米戦争決定の真実である。
つまり、対英米戦争の方針決定とは昭和天皇の反対を押し切って、純度100%のコミュニスト(=共産主義者)の近衛文麿首相が決定したと言って間違いはあるまい。
以下に「コミンテルン32年テーゼ」と「マルクス・レーニン主義」の基本思想を極めて簡潔にまとめるが、これを一瞥すれば、近衛文麿が何を目的として祖国日本を対英米戦争に引きずり込んだかが、容易にわかるであろう。
大東亜戦争とは、マクロ的視点から見れば、革命的祖国敗北主義を基礎にした、日本及びアジア(特に東アジア)の共産化のための戦争であったというのが真実である。
この共産主義者の暗躍の視点を欠いた大東亜戦争の歴史書・教科書とは、すでに「歴史物語」の類である。
この大東亜戦争の期間中、日本政府及び帝国陸海軍の背後には常にソ連のスターリンと中共の毛沢東の影響力がちらついている。




