保守主義の哲学---(第七回)小林よしのり氏の漫画『新天皇論』を検証してみよう [政治]
読者の皆さまには、いつも私〔=ブログ作成者〕の稚拙な小論をお読み頂き、深く御礼申し上げます。
毎回お知らせしておりますが、中川八洋 筑波大学名誉教授の新刊(『小林よしのり「新天皇論」の禍毒』、オークラ出版)が本年6月30日に刊行予定です。
エドマンド・バークを信奉する保守主義者である私〔=ブログ作成者〕が中川八洋 筑波大学名誉教授の新刊本を紹介するのは、
① 多くの日本国民に、日本国の天皇(皇室)及び皇祖皇宗の遺訓である“皇位継承の法”について“正しい事実”を知って頂きたい。
② 多くの日本国民に、“真正の保守(自由)主義(哲学)”とは何か、について“正しい智識”を持って頂きたい。
③ それらのことが、天皇(皇室)を戴く日本国と日本国民を、悠久の繁栄へと導くことができる“唯一の道”であると確信できるから。
という理由以外には何もありません。
ですから、多くの日本国民の皆さまに中川八洋(『小林よしのり「新天皇論」の禍毒』、オークラ出版)を読んで頂きたいと思います。
(参 照)→オークラ出版・近日発行情報 http://www.oakla.com/htm/news_book.html
さて、小林よしのり氏の漫画『新天皇論』の虚構を検証するシリーズ七回目は第六回目の続きである。
(7) 「“皇位継承の法”に〈直系主義なるもの〉は果して存在するのか?北畠親房『神皇正統記』の暗号=法の解読(其の二)」と題し、
北畠親房『神皇正統記』の記述の中に、小林よしのり氏流の「直系主義」が発見できるのか否かを考察したので、前回に引き続き、その内容について話してみたいと思う。
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神皇正統記に曰く、
「第二十六代、武烈天皇(ぶれつてんわう)は仁賢(にんけん:仁賢天皇)の太子。
・・・性さがなくまして(=性質がよろしくなくて)惡としてなさずと云(いふ)ことなし。
仍(よりて)天祚(あまつひつぎ:天皇位)も久(ひさし)からず。
仁徳(にんとく:仁徳天皇)さしも聖徳(せいとく)ましまししに、此(この:仁徳天皇の)皇胤(くわういん:「正系」であった皇統)ここにたえにき(=途絶えてしまった)。
『聖徳(せいとく)は必(かなら)ず百代にまつらる』〔春秋(しゆんじう)にみゆ〕とこそみえたれど、不徳(ふとく)の子孫(しそん)あらば、其(その)宗(そう:その宗系の皇統)を滅すべき先蹤(せんしよう:先例)甚(はなはだ)おほし。
されば、上古(しやうこ)の聖賢(せいけん)は子(こ)なれども、慈愛(じあい)におぼれず、器(うつは)にあらざれば傳(つたふ)ることなし。
・・・第二十七代、第二十世、繼體天皇(けいていてんわう)は應神(おうじん:應神天皇)五世の御孫(おほんまご:子孫)なり。
第八御子(だいはちのみこ)隼總別(はやぶさわけ)の皇子(みこ)、其子(そのこ)大迹(おほと)の王(わう)、其子(そのこ)私斐(しひ)の王(わう)、其子(そのこ)彦主人(ひこうし)の王(わう)、其子(そのこ)男大迹(をほと)の王(わう:五世)と申(まをす)は此(この)天皇(てんわう)にまします。
御母(おほんはは)振姫(ふりひめ)、垂仁(すゐにん:垂仁天皇)七世(しちせい)の御孫(おほんまご)なり。
越前國(ゑちぜんのくに)にましましける。
武烈(ぶれつ:武烈天皇)かくれ(=崩御し)給(たまひ)て皇胤(くわういん:仁徳天皇の系統の皇統)たえ(=途絶える)にしかば、群臣(ぐんしん)うれへなげきて國々(くにぐに)にめぐり、ちかき皇胤を求奉(もとめたてまつり)けるに、此(この)天皇王者(てんわうわうしや)の大度(たいど:度量の大きいさま)まして、潜龍(せんりよう:これからまさに天皇にならんとする)のいきほひ、世(よ)にきこえ給(たまひ)けるや、群臣(ぐんしん)相議(あいはからひ)て迎(むかへ)奉(たてまつ)る。
三(み)たびまで謙譲(けんじよう:へりくだって辞退)し給(たまひ)けれど、つひに位(くらゐ)に卽(つき)給(たま)ふ(=即位された)。
ことし丁亥(ひのとゐ)の年(とし)なり。〔武烈かくれ給ひて後、二年位(くらゐ)をむなしくす。〕
大和(やまと)の磐余(いはれ)玉穂(たまほ)の宮(みや)にまします。
仁賢(にんけん:仁賢天皇)の御女(おほんむすめ)、手白香(たしらか)の皇女(くわうによ)を皇后(くわうごう)とす。
(繼體天皇は)卽位(そくい)し給(たまひ)しより誠(まこと)に賢王(けんわう)にてましましき。
應神(おうじん)御子(みこ)おほくきこえ給(たまひ)しに、仁徳(にんとく)賢王(けんおう)にてましまししかど、(武烈天皇にて)御(み)末(すゑ)たえにき。
隼總別(はやぶさわけ:應神天皇の第八子)の御(み)末(すゑ)かく世をたもたせ給(たまふ)こといかなる故にかおぼつかなし。
仁徳(にんとく:應神天皇の第四子)おば大鷦鷯(おほさざき)の尊(みこと)と申(まをす)。
第八の皇子をば隼總別(はやぶさわけ)と申(まをす)。
仁徳(にんとく)の御世に(みよ)に兄弟たはぶれて鷦鷯(さざき=仁徳)は小鳥なり。
隼(はやぶさ=隼總別)は大鳥(おほとり)なりと爭(あらそひ)給(たまふ)ことありき。
(鷦鷯が)隼(はやぶさ)の名にかちて末(すゑ)世(よ)をうけつぎ給(たまひ)けるにや。
名をつくる(=名前を付ける)こともつつしみおもく(=慎重に)すべきことにや。
それも(男大迹の王=繼體天皇は)おのづから天命(てんめい)なりといはば、凡慮(ぼんりよ)の及(およぶ)べきにあらず。
此(この)天皇(てんわう:繼體天皇)立給(たちたまひ)しことぞ思外(おもひのほか)の御運(ごうん)とみえ侍(はべ)る。
但(ただし)、皇胤(くわういん)たえぬべかりし時、群臣(ぐんしん)擇(えらび)求(もとめ)奉(たてまつり)き。
賢明(けんめい)によりて天位(てんゐ)を傳給(つたえたま)へり。
天照太神(あまてらすおほみかみ)の御本位(ごほんい)にこそとみえたり。
皇統(くわうとう)に其人(そのひと)ましまさん(=いらっしゃる)時(とき)は、賢(かしこ)き諸王(しよわう)おはすとも、爭(いかで)か望(のぞみ)なし給(たまふ)べき。
(正系の)皇胤(くわういん)たえ(=途絶え)給(たま)はんにとりては(傍系から)賢(けん:徳のある賢者)にて天日嗣(あまつひつぎ:天皇位)にそなはり給(たま)はん(=即位される)こと、即(すなはち)天(てん)のゆるす所なり。此(この)天皇(てんわう)をば我國(わがくに)中興(ちうこう)の祖宗(そそう)と仰(あふ)ぎ奉(たてまつ)るべきにや。」(北畠親房『神皇正統記』、岩波書店、71~74頁)
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→私〔=ブログ作成者〕の要約:
① 武烈天皇が崩御され、「正系」であった仁徳天皇の系統の皇統が途絶えてしまった。
群臣は憂い嘆いて、親近の皇胤(=皇統を世襲し、皇位を継承する権利のある男子皇族)を国中から探し求め、男大迹の王を探し出した。
ここで、我々現在の日本国民が拳々服膺して学ぶべきことは、日本書紀においてもそうであるが、神皇正統記においても、繼體天皇の即位に至る経緯の記述において、群臣には、女系天皇や女性(=男系女子天皇)を即位させて「正統な皇位継承である」とするような邪念など思い付きもしなかったという事実である。
つまり、万世一系、男系男子の皇統の護持が「群臣の義務」であったのである。
→言うまでもないが、群臣が探し出した男大迹の王は應神天皇の血統を世襲・継承し、かつ皇位継承権を持つ『正統』な皇族(=姓なし、臣籍に非ず)であることを必要条件としているのであって、賢者なら誰でもよかったわけではない。だからこそ、「群臣は国中を探しまわった」のである。
つまり男大迹の王は、仁徳天皇の系統(=当時の正系)に対して傍系であるが、その皇位継承は『正統』である。
ゆえに繼體天皇という御名は、「正統な皇位の継承の意味」として名付けられたのである。
まことに、「名をつくる(=名前を付ける)こともつつしみおもく(=慎重に)すべきことにや」というわけである。
※ ここに、校訂者 山田孝雄氏の注意書きを以下に記しておく。
「注意 繼體天皇が應神天皇五世の孫なることは古典が一致して傳ふる所なれど隼總別の後(=子孫)なりとするは誤ならむ。
釋日本紀に引く上宮記には應神の子若野毛二俣王の後(=子孫)とす、但し水鏡には本書と同じ説をあぐれば、この説も久しく行はれしならむ」(『神皇正統記』岩波書店、72~73頁の下段部)
つまり、北畠親房『神皇正統記』では、
應神天皇→隼總別皇子→大迹王→私斐王→彦主人王→男大迹王=繼體天皇としているが、釋日本紀など多くの古典では、
應神天皇→稚野(渟)毛二派(わかぬけふたまた)皇子→意富富杼(おほほど)王→乎非(おひ)王→彦主人(ひこうし)王→男大迹王=繼體天皇となっており、前者は誤りであろうという指摘である。
ちなみに、私〔=ブログ作成者〕が前回(シリーズ第六回)で解説に使用した「宮内庁の天皇系図」は後者を採用している。
② 北畠親房は『神皇正統記』において次のように主張しているのである。
傍系の皇統からの皇位継承も『正統』であることは、天照太神の御本位である。
但し、「(現在)正系の天皇の皇統」が世襲により継続している場合、皇位の継承について、群臣が「諸王の賢明さ」を理由(基準)にして恣意的に「傍系の皇統」を「正系の皇統」に優先さるような行為をしてはならない。
このことは、例えば『神皇正統記』の別箇所の次のような記述からも読みとれる。
神皇正統記に曰く、
「仕官(しくわん)するにとりて文武(ぶんぶ)の二(ふたつ)の道あり。
坐(ざ)して以(もて)道(みち)を論(ろん)ずるは文士(ぶんし)の道(みち)なり。
この道(みち)に明(あきらか)ならば相(しやう)とするにたへり。
征(ゆい)て功(こう)を立(たつ)るは武人(ぶじん)のわざなり。
此(この)わざに誉(ほま)れあらば將(しやう)とするにたれり。
されば、文武(ぶんぶ)の二(ふたつ)は、しばらくもすて給(たまふ)べからず。
世(よ)みだれたる時(とき)は武(ぶ)を右(みぎ)にし文(ぶん)を左(ひだり)にす。
國(くに)をさまれる時(とき)は文(ぶん)を右(みぎ)にし武(ぶ)を左(ひだり)にすといへり。
〔古(いにしへ)に右(みぎ)を上(かみ:上位)にす。仍(よりて)しかいふなり。〕
かくのごとくさまざまなる道(みち)をもちゐて、民(たみ)のうれへをやすめ、おのおのあらそひなからしめん事(こと)を本(もと)とすべし。
・・・我國(わがくに)は王種のかはることはなけれども、政(まつりごと:文士又は武人→群臣による政治)みだれぬれば、暦數(れきすう)ひさしからず、繼體(けいてい)もたがふためし、所々(ところどころ)にしるし侍りぬ。
いはんや、人臣(じんしん:臣下)として其職(そのしよく:我が身の職位)をまぼる(=守る)べきにおきておや」(『神皇正統記』、岩波書店、102頁)
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