保守主義の哲学---良心の務めとしての反フェミニズム論2018 [政治]

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 読者の皆様へ

 私、少し体調を崩して療養しておりましたが、気付けば平成30年(2018年)も、はや7月に入ってしまいました。

 そのような事情もあり、大変遅くなりましたが、ここに本年最初の論文「良心の務めとしての反フェミニズム論」を掲載いたします。

 少々ページ数(文字数)が多くなりましたが、論考の内容は極めて重厚かつ有益であると自負しておりますので、興味ある方は、ぜひ最後までお読みください。




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【私のバーク保守主義解説ホームページ】




 《反フェミニズム関連》




 【平成30729日追記】

 

 〇 自然の摂理としての不動の真実について


  子供を産み育てることは、人類にとって最重要の人間的価値の一つであるということ。このこと自体は、マスメディア、新聞、フェミニズム団体やLGBT団体等の人々が、いかなる批判を加えようとも、どんなに否定しようとも、≪不変の自然の摂理≫の下にあり、また、人類にとって古来からの不動の真実≫であったし、未来永劫そうであり続けるということ。」

  すべての日本国民は、このことだけは決して間違わずに、常に肝に銘じておくべきであろう。

 以 上。


【閑話休題】(平成30722日付追記)

 今回の論文「良心の務めとしての反フェミニズム論」の中に盛り込めなかった内容について、若干の補足をしておきたい。それは、神(日本では天照大御神と八百万の神々である)と宗教および良心、敬虔、畏怖などの宗教的・道徳的信念の大部分は、本能---行動ルールの伝統---理性の三つの人間的価値の中では、「行動ルールの伝統」に属するものだということである。

 すなわち、神(神々)・宗教・宗教的信念などは、その本質上、「理性」では捉えられないものへの対処の試み---行動ルールの伝統の範疇の問題---であるから、合理的でないから信じるに値しないとか、理性によって明証できないから存在しないという理由で、それらの必要性と有益性を否定することはできないのである。

 世界の偉大な保守主義あるいは真正の自由主義の哲学者・思想家・政治家は、皆このことを直観的に理解していたがゆえに、保守主義者であり真正の自由主義者であったのである。

 ここで私が言う、真正の自由主義者とは、フランス啓蒙主義や英国ベンサム派功利主義などから派生した偽りの自由主義ではない、法と道徳の支配を肯定し重視する制限された自由主義を指している。


 ベルジャーエフは、「神」について次のように述べている。

 「もしも世界や人間がそれだけで完全であり、それらを超越する、より高く、より深く、より神秘的な何ものかが存在しないならば、我われは苦しみや悪に耐えることができないであろう。我われが神のみもとに行くのは、我われの理性が神の存在を証明するからではなく、この世が理性の限界を越えたところに存在する神秘に包まれているからなのである。」(『ベルジャーエフ著作集3』、白水社、6465頁、ゴシック文字:私)


 ハイエクは宗教と宗教的信念の重要な役割について次のように述べている。

 「有益な諸伝統が、少なくともそれに従うグループが増大して、自然ないし文化的な選択によって拡大する機会を得るのを可能にするだけ長く、保存され伝達されて来たのは、一部に神話的・宗教的信念のおかげであり、私の信ずるところでは、とりわけ一神教的信念のおかげである。これが意味するのは、好むと好まざるとにかかわらず、我われは一定の慣行の存続を、そしてそこから生ずる文明を、科学的言明と同じ意味では真ではない---あるいは検証可能でもテスト可能でもない---、また明らかに合理的な論証の結果でもない信念の支えに部分的に負っているということである。時として私は、少なくともこのような(一神教的)信念の一部を、少なくとも真価の理解の印として<シンボリックな真理>と呼ぶのがよいのではないかと思う。・・・道徳は我われの理解し得ぬ過程によって決定されたという宗教的な見解は、合理主義者に見られる、人間はその知能を働かせることで、およそ予見しうる以上のことを成就する能力を与えてくれる道徳を発明した、という妄念よりも、(宗教の)意図通りの意味においてではないとしても、ずっと真理に近いのである。以上を念頭におくならば、我われは、自分たちの教えの一部の妥当性についてやや懐疑的になりながらも、なお信仰を失えば道徳の衰退を招くであろうと危惧したがゆえに、それを人々に説き続けた聖職者たちをよく理解し、評価することができるのである。おそらく彼らは正しかった。そして不可知論者でさえ、我われがその道徳を、そして文明のみならず、まさにその生命をも与えた伝統を、その種の科学的には受け入れがたい事実についての主張(=シンボリックな真理を受容することに負っていると認めざるを得ないのである。」(『ハイエク全集Ⅱ-1「致命的な思い上がり」』、春秋社、206207頁、ゴシック文字、(  )内:私)


 バークは、人間の道徳とは神が人間に授けた法であるがゆえに、人間は道徳によって拘束され得る(道徳的義務を受容する良心を持ち得る)のだ、と洞察した。

 「もし、道徳法を形成し強制する全知全能の創造主が存在しないとすれば、時の権力の意思に反する実質的または実定的などんな契約にも、拘束力は存在し得ないだろうと私は思う。この(創造主が存在しないという)仮定によれば、どんな人間集団であっても、彼らが義務を無視するほどに強力になると、義務はもはや義務であることをやめるだろう。我われは抵抗できない権力に対しては、次の唯一の訴えを持つにすぎない。


仮に汝が人類と人間の武器を軽んずるにせよ、

それにしても神々が正邪を記憶し給うことを希望せよ。

---『アエネイス』第一巻---

 私がパリ流哲学の門弟に対して論じているのではないことを当然の前提とすれば、我われ人間の畏怖すべき創造主は存在秩序における人間のあるべき場所の創造主であり、神の摂理によって、我われ人間を、人間の意思ではなく神の意思に基づいて、配置し導き給うがゆえに、この配置によって実質上我われに与えられた場所に帰属する役割を果たすように、我われに命じ給うたのである。我われが人類一般に対して負う義務は、特定の任意協約の結果ではない。それは人間と人間、人間と神との関係に由来するが、この関係は決して選択できる問題ではない。それどころか、我われが人類の中の特定の個人や一定数の人々との間で取り結ぶあらゆる協約の効力は、この上位の義務に依存するのである。」(『バーク政治経済論集「新ウィッグから旧ウィッグへの上訴」』、法政大学出版局、655頁、ゴシック文字、( )内、英語原文からの邦訳修正:私)


以上、by Kentarou Ichimura.


【中川八洋 筑波大学名誉教授 公式ブログ】中川八洋掲示板


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