保守主義の哲学---D・ヒューム、E・バークの憲法とJ・ロックの「原始契約」について(1/2) [政治]
読者の皆さまには、いつも私〔=ブログ作成者〕の稚拙な小論をお読み頂き、深く御礼申し上げます。
目も当てられないほどに傲慢かつ無能に加え、国民騙しを続ける卑怯首相、菅直人の率いる民主党政権が醜態を晒し続ける間に、エドマンド・バークの『フランス革命の省察』における最強の保守哲学を日本国民に拡散し、徹底周知しておくことがいずれ、民主党、社民党、共産党その他の社会主義政党などに破壊的打撃を与えるであろうことを私〔=ブログ作成者〕は確信して、エドマンド・バークの『フランス革命の省察』を真正保守(自由)主義の立場から正しく邦訳しなおして、逐次ブログに掲載し、日本国中に復活させる所存である。
さて今回は、『フランス革命の省察』の次回邦訳予定のパラグラフを理解しやすくするために、“憲法(the constitution)”と「原始契約(the original contract)」という概念について、エドマンド・バーク、ディヴィット・ヒューム、ジョン・ロックらの思想を紹介しておきたいと思う。
最初に、私〔=ブログ作成者〕の結論を、「ごく簡潔に」述べれば、次のとおり。
(1) ジョン・ロックの思想
“現在の”英国王の統治権の起源=【王制成立時の「原始契約」(=民衆の同意)】のみに基づくとする。
(2) ディヴィット・ヒュームの思想
“現在の”英国王の統治権の起源(根拠)=「原始契約」時から現在に至るまでに歴史的に形成された英国王の統治権に対する英国民の“慣習的黙諾”と社会存続の明白な利益と必要のために遵守されてきた、英国王の統治権に対する英国民の“忠誠の義務”に基づくものとする。
(3) エドマンド・バークの思想
“現在の”英国王の統治権の起源(根拠)=《 【王制成立時の「原始契約」(=民衆の同意)】+【(コモン・ロー+成文憲法=英国憲法)】 》に基づく“王位の世襲継承法”の承認(黙諾)に基づくものとする。
→私〔=ブログ作成者〕の解説:
(1) ジョン・ロックの思想の場合、英国王の統治権の起源(根拠)を、王制成立時の「原始契約」(=民衆の同意)のみに求め、この「原始契約」に基づいて、臣民は暗黙のうちに、君主に対して抵抗権を保留しているとする。
つまり、英国王の統治権は、もともと臣民が、彼らの所有物(生命、自由および資産)を保全する目的のために、すすんで国王に委託したものに他ならないから、英国王の統治権によって、不当にも原始契約を圧迫されるような場合には、臣民はいつでも英国王に対して反抗する権利(=民衆が契約を破棄して、民衆の同意さえあれば、自由に王位を選択できる権利)があるとする。
ジョン・ロックは言う、
「人間は自然の状態ではいろいろな特権があるにもかかわらず、その中にとどまるかぎりは、かえって悪条件のもとにある結果になるところから、すみやかに社会へと駆り立てられるのである。
・・・彼らはこのような不都合を避けるために、統治の確立した法のもとに避難し、そこに彼らの所有物の保全を求めるのである。
そしてこのために、人々は各人一人一人のもっていた処罰権をすすんで放棄する。
そしてこの権利が、自分たちの間でそのために任命される人々によってのみ行使され、またこの権利が、共同社会や、共同社会からそのための権威を与えられた人々が同意するような規則に従って、行使されるようにするのである。
そしてここに、われわれは統治と社会そのものの本来の権利と起源のみでなく、立法・行政両権の本来の権利と起源を見るのである」(『世界の名著27』ロック「統治論」、中央公論社、272頁)
「もし長期にわたる一連の悪政や言い逃れや策謀が、すべて皆同じ方向をたどり、それによって支配者のたくらみが国民の目に明らかなものとなると、国民は自分たちがどんな隷属状態にあるのかを感じ、自分たちがどこへ進みつつあるのかを悟らないわけにはいかない。
そこで彼らが蹶起して、最初、統治が確立されたときのその目的(=原始契約)を自分たちのために確保してくれそうな人々の手に支配権を移そうとするのは、別に不思議なことではないのである。
その目的が確保されていなければ、どんな由緒ある王家の名も、外見だけは立派な統治の形態も、自然状態や全くの無政府状態にまさるどころか、むしろ劣るものである」(『世界の名著27』ロック「統治論」、中央公論社、334頁)
(2) ディヴィット・ヒュームの思想
“現在の”英国王の統治権の起源(根拠)=「原始契約」時から現在に至るまでに歴史的に形成された英国王の統治権に対する英国民の“慣習的黙諾”と社会存続の明白な利益と必要のために遵守されてきた、英国王の統治権に対する英国民の“忠誠の義務”に基づくものとする思想。
ヒュームの思想は、ヒューム(『人性論』「原始契約について」、中公クラシックス、211~238頁)を抜粋して掲載した。
少々長文であるが、内容はさほど難しくないし、「王権神授説」や「王制の原始契約論(=民衆の同意)」の両極端の思想の誤謬を理解するためには、読者の皆さんもぜひ読んでおく価値ある内容であると考えて掲載したものである。
―――ヒューム『人性論』「原始契約について」、中公クラシック、211~238頁から部分抜粋(ここから)―――
(王権神授説について)
さて『神』がいっさいの政府の究極の創造者であることについては、普遍的摂理の存在を認める人なら、つまり、宇宙におけるいっさいの出来事は一定不変の計画に従って起こり、思慮深い目的を目ざすように配慮されていると信じる人なら、誰でも異論はないだろう。
人類が政府の保護もなしに、ともかくも快適な、または安定した状態で生活するなどということは、とても考えられないことである。したがって、この政府という制度は、確かにすべての創造物の幸福を図る、あの恵み深い神によって配慮されたものに違いないと考えられる。
実際、この制度(=政府)は、どんな国、どんな時代にもあまねく見いだされる。したがってこのことからわれわれは、この制度が、いっさいを見とおすあの全知の神によって考え出されたものであることをいっそう確実に結論できるように思われる。
けれども、この制度(=政府)が神によって創り出されたものであるからといって、何もそのために自然の一般的過程の中に介入するような、特別の奇蹟が行われるには及ばなかっただろう。
むしろそれは、人間の目には見えないけれども、自然の一般的過程のうちに働いている、神の摂理の普遍的な力に基づくものであったろう
(→私〔=ブログ作成者〕の解説:要するに、政府は神の創造物であり、神の摂理の普遍的な力に基づくすべてのものの一部であるという意味で「神授」とは言えても、他のものと比較して特別なものとは言えないだろうということ。トーリー党の掲げた王権神授説に基づく統治者の専制権力の否定である)。
したがって、厳密に言えば、君主が神の代理者と呼ばれる場合にも、何もそのことには特別の意味は含まれていないはずである。
つまり、およそ君主の権能に限らず、すべての権能というものは神に由来しているわけだから、従ってそれらの行為はすべて神の委任に基づいているとも言いうるという、ただそれだけのことでしかないはずである。
つまり、現実に起こるいっさいの出来事は、神の摂理の一般計画のうちにあらかじめ含まれている。
したがってこの点では、最も偉大な、最も合法的な君主といえども、下級の官吏どころか、王位横領者や山賊・海賊の類とさえも少しも異ならないのであって、彼らと同様、特別の神聖さや不可侵の権威などの要求できる筋合いはない(→王権神授説に基づく専制権力の否定)のである。
(ロックらの「原始契約」論について)
…ところでまた、すべての人々は、教育によってその能力が伸ばされるようになるまでは、体力においても、精神的な諸能力、諸機能においてさえも、そう大きな個人差はないと考えられる。
とすれば、まず最初に彼ら自身が同意することなしに、彼らが一致して、あるなんらかの(自分たちと大きな個人差のない)権威に服するなどということはありえないことに思われる。
つまり、政府の最初の起原は森林や砂漠のなかにまでたどられるとしても、政府のいっさいの権力の源泉は人民であって、人民が平和と秩序のために彼らの生まれながらの自由を進んで放棄し、彼らの対等な仲間から法律を受け取ったに違いないと考えられる。
しかもその際、このような自発的な服従の条件となったものは、ある場合には明文化されたが、またある場合には、あまりにも明白なこと(→慣習など)だったので、何もこと改めて表現されるまでもないように考えられたのだと解されるのである。
さて以上が原始契約と呼ばれるものの内容だとすれば、すべての政府が最初はこのような契約を基礎としていること、また、人類最古の原始社会でさえももっぱらこのような原理によって形成されたであろうことは否定されないだろう。
(ロックらの「原始契約」論に対する反論)
…現在の支配的権力は、海の艦隊や陸の軍団によって維持されてはいるが、明らかに政治的なものである。
それは権威、つまり安定した政府の持つ効果に由来している。
ひとりの人間の持つ自然的な力は体力と気力の範囲に限られており、それだけで多数の人間を一個人の命令に服させることは不可能である。
したがって多数者自身の同意がなかったならば、また多数者自身の、平和と秩序のもたらす利益に対する考慮がなかったならば、何物もそのような支配力を持つことはできなかっただろう。
けれどもこの同意でさえ、長い間いたって不完全で、本格的な行政の基礎になるほどのものではなかった。族長は――おそらく彼の地歩は戦争中に築かれたものであろうが――命令よりも説得に頼って支配することのほうが多かった。
したがって、このような社会は市民政府の状態と言えるものにはほど遠かったのであり、それにはまず族長が、実力をもって、反抗的な連中を押さえることができるようにならなければならなかったのである。
さらにまた、服従全般に関して、ことさら契約なり協定なりが結ばれるということも、もちろんまだなかった。
そんなことは未開人にとって思いもよらぬことだった。族長がすすんで権威を行使したのは異例の場合であり、しかもよほど事態がさし迫った場合に限られていたに違いない。
けれども、族長の介入に利点があることが気づかれるにつれて、このような権威の行使は日ましに頻繁になっていったに違いない。
そして、この頻繁さから、やがて人民の側にある習慣的な黙諾が――もしお望みとあれば、人民の自由な意志によると言ってもよい、したがって人民の都合次第の、と言ってもよい、あの黙諾が――生まれたのである。
けれども、すでにあるひとつの党派に加担している哲学者(→ジョン・ロックを指す)たち〔もっとも、このような人たちを哲学者と呼ぶことが、哲学者という言葉の意味に矛盾しない限りでのことだが〕は、このような譲歩では満足しない。
彼らは、生まれたばかりのほやほや政府が、すでに人民の同意、あるいはむしろ自発的な黙諾に基づいている、と主張するだけではない。
さらに彼らは、政府が完全な成年に達した現在でさえ、政府の基礎はそれ(=人民の同意、自発的黙諾)以外にはないのだと主張する。
彼ら(=ジョン・ロックらの学派)は次のように断言する。
――すべての人間はつねに生まれながらに平等である。
したがって、君主や政府に対する忠誠義務も、あらかじめ約束に基づく義務と制裁とによって拘束されているのでない限りは、課せられることができない。
それにまた、だれでも、それ相当のものを償われることなしには、(自然法に基づく)生来の自由の権利を放棄してまで他人の意志に従おうとする者はいない。
したがって、この約束はつねに条件付きのものだと考えられる。
つまり、それは、もしも君主から正義と保護が得られないならば、なんらの義務も課すものではないと考えられる。
君主はこのような利益を服従の代償として約束している。
もしも彼がこの約束を果たさないならば、それは、すでに君主みずからが契約の条項を破り、それによって臣民のあらゆる忠誠義務から解放したことを意味するのだ(ジョン・ロックらの学説ここまで)――と。
以上が、例の哲学者たちの主張する、あらゆる政府権力の基礎であり、また、あらゆる臣民の所有する反抗権である。
けれども、このような理屈家さんたちも、一度よく現実世界を見渡してみるならば、そこには自分たちの考えに少しでも一致するもの、また自分たちのそんなにも洗練された哲学的な理論の裏付けとなるものが何一つとして存在しないことに気づくだろう。
逆にわれわれはいたるところで、臣民は自分の財産であると主張し、また、君権は征服や継承に由来するもので、臣民には依存しないとする君主たちに出会うのである。
しかも彼らの臣民もまた、君主のこのような権利を承認しているのを見いだす。
臣民の側では、あたかも人は生まれながらに各自の定まった両親に対して尊敬を捧げ、義務を尽くさねばならないように、一定の君主に対しても、生まれながらに服従義務を負っているのだと思いこんでいる(=自然な感情を持っている)のである。
…原始契約ないしは人民の同意というこの原理に対して、もっと本格的な、少なくともより哲学的な反論を求めるとすれば、おそらく次のような考察がそれに値するだろう。
いっさいの道徳的義務は二つの種類に分けられる。
まず第一の種類は、一種の自然的本能、または直接的に作用するある種の傾向によって人間に強制されるものである。
このような本能ないし傾向は、公益だとか私益だとかに対する、いっさいの義務観念や見解とは無関係に人間に働きかける。
子供に対する愛情、恩人に対する感謝の念、不幸な人々に対する同情は、この種のものである。
このような人道的な諸本能によってもたらされる社会的利益を反省して(=経験的に省みて)、われわれはそれら諸本能に、正当にも道徳的是認と尊敬を贈るのである。とはいえ、現にこのような諸本能によって駆り立てられる当の御仁においては、このような反省は二の次であって、何よりもまずそれらの力と影響が感受されているのである。
※ 引用文中の( )内はすべて私〔=ブログ作成者〕の補足説明である。
以降は、保守主義の哲学---D・ヒューム、E・バークの“憲法”とJ・ロックの「原始契約」について(2/2)に続く。
【平成23年7月30日掲載】
エドマンド・バーク保守主義者(神戸発)
ようやく、高校で学んだ、「ジョン・ロック」と保守哲学の間の比較、その論駁方法を知りました。我々は無批判にロックやルソーなどに晒され・侵されていますが、我々を犯したものそのものを、保守哲学の流儀で反論し、その方法を身につける事が、我々の勢力を広げ、強くするものだと信じます。
罪が重いのは、デカルト、ルソー、JSミル、ロック、ホッブスあたりではなかろうかと思います。もちろんマルクスは別格ですが、上に上げた5人くらいは、みんなうっすら染められていますから、自覚的に除染しておく必要があります。
by うまやど (2011-07-30 16:16)