保守主義の哲学---ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅰ [政治]
読者の皆さまには、いつも私〔=ブログ作成者〕の稚拙な小論をお読み頂き、深く御礼申し上げます。
さて、私〔=ブログ作成者〕の本年最後のブログ更新にあたり、日本国民は大震災や原発事故の大きな困難にあるときこそ、自由主義と自由の価値の重要性を再認識すべきあって、困難の責任を誤って自由主義や自由市場に転嫁して、政府権力による統制主義に依存してはならないのだ、ということを確認して頂きたいため、「ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅰ~Ⅳ」と題して私〔=ブログ作成者〕なりの方法で纏めてみた次第である。日本国民の多くが真正の自由主義の概念を学んで頂ければ幸いである。
なお、余談であるが、本ブログ「ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅰ~Ⅳ」の読後、正月休みに時間と興味のある方は、映画『トランスフォーマー「ダークサイド・ムーン」』のDVDを鑑賞していただくと大変面白いと思う。
ディセプティコンと密約したオートボットの裏切り者センチネルプライムとオートボットの勇者オプティマス・プライムのセリフを比較(邦訳版でよい)して視聴してみるとよい。
意識的であるにせよ無意識的であるにせよ、前者は「個別主義的功利主義(=社会主義)」、後者は「一般主義的功利主義(=真正自由主義)」のセリフに明確に区分されていることに気づくだろう。SF映画とはいえ流石は、自由主義大国・米国の映画である。
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、134~136頁――
自由主義における自由の概念
具体的な政治綱領まで示したのは、「イギリス型」の、あるいは進化論的自由主義だけ1であるから、自由主義理念の体系的考察はこちらを主に取り上げることにして、「大陸型」の、設計主義的自由主義(=つまり、社会主義)については比較の対象として触れるにとどめたい
(→私〔=ブログ作成者〕の補足:このように、以下でハイエクが使用する学術用語の「自由主義」とは「イギリス型の真正の自由主義」と定義されている)。
・・・政府の強制力を正しい行為の一般的ルール2の施行にかぎる(=制限される)という基本原則は、政府が個人の経済活動について命令したり、管理したりすることをそもそも禁じるものだ。
そのような力を政府に与えれば、政府は個人の行動についての選択の自由をも制限するような恣意的で、自由裁量が可能な力を手に入れてしまう。
個人の選択の自由こそ、自由主義者が保障したいと願うものである。
法の下の自由は経済における自由も含む。
他方、経済統制はあらゆる目的のための手段をコントロールするもので、あらゆる自由に制限を加えることを可能にする。
さまざまな種類の自由主義も、個人の自由の追求や、そこから派生する個性の尊重という点においては一見共通するように見えるが、上記の関連から見ると、重要な相違が裏にある3ことがわかる。
自由主義全盛の時代、自由の概念はかなり明確に定義されていた。
基本的には、自由な人間は恣意的に強制されることがあってはならないという意味であった。
社会で生きる人びとがそのような強制から保護されるためには、すべての人びとが互いに他者を強制することのないよう制限を課する必要がある。
イマヌエル・カントの有名な一節を引用すれば、万人の自由は、個人の自由がすべての他者の平等な自由を侵さない範囲にとどまらなければ達成できない。
自由主義の自由の概念はつまり、自由を制限する法の下での自由であって、そうでなくては万人に平等な自由は確保されない。
これは、時に孤立した個人の「自然的自由」といわれるものではなく、社会で、他者の自由を保護するために必要なルールによって制限された自由4であった。
この点、自由主義は無政府主義とは一線を画すものである。万人が可能な限り自由であるためには、強制行為を完全になくすことはできず、(任意の個人が)他者を勝手に強制することを防ぐのに最低限必要な範囲に限定するだけであることを自由主義は認識している。
この自由は、既定のルールで定められた領域内での自由であり、そのルールの制限内で行動することで、自らが強制されることを避けることができるのである。
この自由は他方、自由を確保するためのルールを守ることができる人びとにだけ許されるものである。
自分の行動に責任がもてる、良識ある成人だけがこの自由を享受することができ、子供や精神的能力が十分でない人間の場合は監督、指導が適切である。
そして、万人に平等の自由を確保するためのルールを破ったときはその罰として、ルールを守る人なら許される強制免除の権利を放棄しなければならないこともある5。
自らの行動に責任をもてると判断された人びとに与えられる自由は同時に、それぞれ自らの運命(=行動の結果)にも責任をもつことを求める。
法による庇護は万人がそれぞれの目的を追求することを支援するが、その努力の結果の内容まで政府が個人に保障するものではない。
自ら選んだ目的のためにその知識や能力を活用できる状態を確保することが、政府が万人に保障できる最大の恩恵である。
それがまた、個人が他者の利益のために最大限努力することを奨励することにもなる。自由主義における自由の概念は消極的な概念といわれることがあるが、まさにその通りである。
平和や正義と同様、悪の不在を指し示す概念で、特定の結果を確保するのではなく、だれにでも機会を与える条件を定めているにすぎない。
さまざまな個人が自らの目的を追求するために利用できる手段の範囲は、この自由によってさらに拡大できるかもしれない。
自由主義における自由はこのように、個人の行動にとっての障害のなかで人間が作り出したものをすべて取り除くことを求めている。
社会や国家が具体的な結果を提供することは求めていない。
だからといって、必要とされる集団的行動、少なくともある種のサービスを提供するうえでの効率的な行動を排除するものではない。
それは利便性の観点から許されるものであるが、これもまた法の下の平等な自由という基本理念に従って限定されるものである。
1870年代にはじまった自由主義理念の衰退は、自由を数多くのさまざまな結果を達成するための手段を管理する権利、また政府がそのような結果を保障するものと解釈しなおしたことと深く結びついている。
※〔 〕内:ハイエク。
( )内、アンダーライン、上付数字:私〔=ブログ作成者〕。
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、134~136頁――
→私〔=ブログ作成者〕の解説:
1) イギリス型の自由主義の伝統について。
1689年「権利の章典」については私〔=ブログ作成者〕のホームページを参照されたい。
ホームページへのリンク→Bill of Rights 1689
【参考図書】
エドマンド・バーク『フランス革命の省察』、みすず書房。
中川八洋(『保守主義の哲学』、PHP研究所)、同(『悠仁天皇と皇室典範』、清流出版)、同(『正統の憲法 バークの哲学』、中央公論新社)等々。
ハイエク(『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社)等々。
2) 正しい行為の一般的ルールについて。
「正しい行為の一般的ルールの体系」がハイエクの「法」の定義である。
ハイエク曰く、
「法の支配とは、立法府の権力を含めて、あらゆる政府の権力の限界を設定している」(『ハイエク全集Ⅰ-6「自由の条件Ⅱ」』、103頁)
「法の支配とは立憲主義以上のものでもある。それは、すべての法律がある原理に従うことを要求する」(同)
3) 詳しくは、拙ブログ前回の「二つの自由主義」を参照。
(ⅰ) 「イギリス型」進化論的自由主義
→法の支配(立憲主義)により、あらゆる政府の限界を設定する。無制限の権力を阻止する法哲学。
(ⅱ) 「大陸型」設計主義的自由主義
→政府の権力に対する制限を主張するものではなく、多数派に無制限の権力を与える理念。
4)「制限された自由」に関連して。
ジョン・スチュアート・ミルの「自由」論と「社会主義」思想について、ハイエクは次のように述べている。
ハイエク曰く、
「(J・S・)ミルの主張によると、人は信念や説得によって自己改良を行う能力をまず身に付けなければならないという。
そのような能力を身に付けるまでは、人は[アクバルやシャルルマーニュのような人物に盲従するしかない。
それも、そうした人物を見つけられる幸運に恵まれてのことであるが]とミルは主張している」(『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、108頁)
ハイエク曰く、
「ジョン・スチュアート・ミルは著作『自由論』(1859年)で政府の行動ではなく、世論の専制を取りあげて批判を展開した。
そして他の著作では、(自由と相反する)分配的正義を訴え、社会主義の主張にも共鳴するような態度を示して、自由主義の知識人が徐々に穏健な社会主義へと移行する道を開いた」(『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、131頁)
→私〔=ブログ作成者〕の結論:ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の「自由」は、「イギリス型の真正の自由」ではない。
5)自由を享受できる条件。
(ⅰ) 自由を確保するためのルールを守る(=法の遵守)義務を果たすことができること。
(ⅱ) 自由の諸権利の行使の結果に対して、責任能力を有すること。
(ⅲ) 万人に平等の自由を擁護する法(ルール)を破棄した場合は、自由の権利を放棄せねばならないこともある。
(現在位置:ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅰ)
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【平成23年12月30日神戸発】
エドマンド・バークを信奉する保守主義者
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