保守主義の哲学---ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅱ [政治]
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、136~138頁――
自由主義の法概念
法の下の自由、言いかえれば、恣意的な強制の排除、という自由主義の考え方は、「法」と「恣意」という言葉の意味そのものから生まれたものでもある。
この二つの言葉の違いから、自由主義の伝統のなかで対立が生じているといってもいい。
一方にあるのがジョン・ロック6のように、自由は法の下においてしか確立されないという立場〔「他人の機嫌に左右されながら、人は自由になれるだろうか」〕、もう一方は、大陸型自由主義者やジェレミー・ベンサム7の立場で、ベンサムの言葉を借りれば、「すべての法が自由を侵害するものである以上、法はすべて悪である」というものである。
たしかに、法は自由を破壊するためにももちいられる。
だが、立法行為が生みだすもの(=法律)がすべて、ジョン・ロックやデイヴィド・ヒューム8、アダム・スミス9やイマヌエル・カント、さらには後期ホイッグ派が、自由の保障として考えていた意味での法とは限らない。
彼らが自由を保障するものとして論じた法は、正しい行動のルールのみで私法や刑法を為すもの10である。
立法機関が決定した政令(=法律)11すべてを指してはいない。
政府が施行するルールがイギリス型の自由主義の伝統のなかで自由の条件として論じられる意味での法となるためには、いくつかの特性をもっていなくてはならない。
この特性はイギリス的な慣習法(=コモン・ロー)には必ず備わっているが、立法行為の生み出すもの(=法律)は必ずしも備えてはいない。
それは、将来予測不可能な事例についても適用可能な、個人の行為の一般的ルールという特性である。
このルールは、保護されるべき個人の領域を規定するもので、その内容から具体的な指令をだすのではなく、禁止条項を定めるという特徴をもつ。
そのため私有財産制度と不可分でもある。正しい行為のこのようなルールが規定する範囲内で、個人は自らの目的に向かって、自分にとって望ましい方法で、自らの知識や技術を自由に活用することができるとされるのだ。
政府の強制力はこのように、正しい行為のルールの施行に限定されるというのが前提だ。
一部の極端な自由主義の一派の考え方を除けば、この前提は、市民にたいしてある種のサービスを提供することを禁ずるものではない。
政府にサービスの提供が求められた場合、政府はその目的のために政府に委ねられた資源を使用することができる。
だが、市民を強制することはできない。
言い換えれば、政府はその目的達成のための手段として、個人や個人の財産を利用することはできない。
そんなことをしたら、正当な権威をもつ立法府の行為であっても、独裁者の行為と同じくらい恣意的となる。
なぜなら、どのような場合にも適用可能なルールに則ることなく、特定の個人や集団を対象にした指令や禁令は恣意的とみなされるからである。
古くからの自由主義の伝統のなかで使われてきた意味での「強制行為」が恣意的とみなされるのは、その行為が政府の特定の目的のためのときである。
その判断は、その行為が特定の意志による行為なのか、一般的ルールによるものなのかという点にかかっている。
一般的ルールとは行動全般のなかから自然に生まれる秩序を維持するのに必要なルールで、正しい行為のルールがその秩序を保障するのである。
※〔 〕内:ハイエク。
( )内、アンダーライン、上付数字:私〔=ブログ作成者〕。
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、136~138頁――
→私〔=ブログ作成者〕の解説:
6) ジョン・ロックの思想について。
ハイエク曰く、
「ジョン・ロックの『統治二論』(1689年)だが、これは一部、合理主義的な政治制度理解の元となっていて、18世紀イギリスの思想家たちの基盤にはなっていない〔詳しくは、アルジャーノン・シドニーとチャールズ・バーネットのホイッグ党初期の理念に関する著作を検討しなくてはならない〕」(『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、125頁)
7)イギリス哲学的急進主義( ジェレミー・ベンサム)
ハイエク曰く、
「エルヴェシウスやベッカリーアといったデカルト的伝統を受け継ぐ著者、あるいはベンサム、オースティンからG・E・ムーアにいたるイギリスの後継者たちは、代々続く世代によって進化発展してきた抽象的ルールに埋め込まれている功利性を探求する[一般主義的功利主義(generic utilitarianism)]を、あらゆる行為はすべて予見可能な結果にたいする完全な自覚の下で判定されるべきだということを究極的な帰結としては要求することになる個別主義的功利主義(particularist utilitarianism)に変更した。
これはつまり、遂にはすべての抽象的ルール(=伝統や慣習に基礎とするイギリス的なコモン・ロー、つまり自然発生的な自生的自由秩序)なしで済ますことに向かい、すべての関連する事実を完璧に知ったうえですべての部分部分(=詳細な個別の事象)を具体的に整える(=完全な人間理性で統制し、命令によって計画する)ことによって人間は望ましい社会秩序を手にする(=設計する)ことができるのだという主張へと導く考えである。
したがって、ヒュームの一般主義的功利主義が理性の限界にたいする認識に依拠しており、抽象的ルールへの厳密な服従から理性の最大の利用が得られることを期待するのにたいして、設計主義的な個別主義的功利主義は、理性に複雑な社会の細部をすべて直接操る能力があるのだという信念に依拠しているのである」(『ハイエク全集Ⅱ-4「哲学論集」』、春秋社、13頁)
ハイエク曰く、
「最大多数の最大幸福が決定されることになる快楽と苦痛の計算にかんするベンサムの概念は、ある行為の特定の個々の結果すべてが行為者に周知でありうることを前提にしている。
その論理的結論を追っていくと、それはルールをまったく不要なものとし、それぞれの行為をその行為の周知の効果がもつ効用にしたがって判断する、特殊主義的(個別主義的)あるいは[行為]功利主義にいたる。
・・・しかし、その議論の論理からすれば、少なくともかれの後継者の何人かは個々の行為はその特定の帰結についての完全な知識に照らして決定されるのでなければならないことを明らかに理解していた。
かくて、われわれはヘンリー・シジウィックが、[われわれは各(個別)事例]について、さまざまな代替的行動の予想される結果として予見できるすべての快楽と苦痛を比較し、全体としての幸福を最大にすると思われる代案を採らなければならない]と主張したことに思い至る」(『ハイエク全集Ⅰ-9「法と立法と自由Ⅱ」』、春秋社、30~31頁)
→私〔=ブログ作成者〕の意見:
ベンサムの特殊主義的(個別主義的)功利主義(=極左イデオロギー)=社会主義アプローチによる「最大多数の最大幸福」の追求は、人間の能力の限界に関する前提条件が誤謬であるから、必然的に「最大多数の最大不幸」に帰結する。
このことは、数千万人もの自国民を大量虐殺した、レーニン/スターリンらの共産ロシア(ソ連)の74年間の悲惨な歴史が実証済みである。
8)デイヴィド・ヒュームについて。
ハイエク曰く、
「人間精神の脆弱性〔あるいはヒューム流にいうなら[人間知性の領域の狭さ]、あるいは私の好みで表現するならば、「人間に不可避的な無知」〕の結果定められたルールなしでは次のような結果を招くことになる。
すなわち人間は、
(ヒューム曰く、)
[ほとんどの場合、個々の判断によって行動するだろうし、問題の一般的性質だけではなく、関係する人びとの性格や状況をも考慮に入れるであろう。
しかし、容易に観察できるように、それは人間社会にかぎりない混乱を生みだすだろうし、もしなんらかの一般的かつ不変のルールによって規制されないならば、人間の貪欲さと偏愛はたちまち世界に無秩序をもたらすことであろう]」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、88頁)
ハイエク曰く、
「ヒュームが『道徳原理の研究』の付録で述べている・・・。
(ヒューム曰く、)
[正義と誠実という社会的徳から生じる利益は、あらゆる個人の一つ一つの行為の結果ではなく、社会全体、あるいはその大多数によって同意された全体としての構造、あるいは(一般的、包括的ルールの)体系から生じるのである。
・・・この場合、多くの事例においては、個々の行為の結果と行為体系全体の結果は全く正反対である。
前者は極めて有害であるかもしれないが、後者は最高の利益をもたらす。
・・・その利益は一般的規則の遵守からのみ生じるのであり、それによって、特定の人物や状況から生じるあらゆる害悪や不都合に対して補償が行われるのであれば、それで十分なのである]。
ヒュームが明確に認識していたのは、一般的かつ普遍の法規範ではなく個人の評価(=恣意)が正義と統治とを支配するならば、体系全体の精神に反することになるだろうということであった」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、89~90頁)
(現在位置:ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅱ)
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【平成23年12月30日神戸発】
エドマンド・バークを信奉する保守主義者
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