保守主義の哲学---ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅲ [政治]
→私〔=ブログ作成者〕の解説:(Ⅱからの)続き
9)アダム・スミスらスコットランド道徳哲学派について。
ハイエク曰く、
「『エジンバラ・レビュー』の編者であったフランシス・ジェフリーは1806年に、ケイムズ、アダム・スミス、そしてジョン・ミラー〔さらにアダム・ファーガソンも付け加えるべきであった〕というスコットランド道徳哲学の巨頭たちについて、偉大な研究目的は次のようなことであったと書き記している。
(フランシス・ジェフリー曰く、)
[社会の歴史を、もっとも単純で普遍的な要素にまで遡らせ、実定的に帰せられているほとんどすべての事柄を一定の自明な諸原理の自生的かつ不可避的な発展としてとらえなおすこと、また、もっとも精妙で一見人為的に思える政治の仕組みが、政治的な叡智や考案をほとんどともなわずに作り出されたということを示すこと]
こうした一般的なアプローチを市場に適用するにあたって、スミスは同時代人たちの誰よりも先にまでその基本的な概念を展開することができた。
分業に関する有名な議論が果たしたもっとも重要な貢献とは、親しい仲間によく知られた具体的なニーズや能力によってではなく、貨物の需要・供給を市場で調節する抽象的な価格シグナルによってその活動を支配される人間こそが、[どんな人間の叡智や知識をもってしても十分に]見渡すことのできないような[大きな社会]の広大な領域のために奉仕できる、という認識であった」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、103~104頁)
ハイエク曰く、
「私が好んで[設計主義]と呼ぶ一般的態度が存在することを彼(=アダム・スミス)はよく理解していた。
そうした人のことを彼は[体系の人〔men of system〕]と呼んだ。
以下は、彼がその最初の偉大なる著作(=『道徳感情論』)のなかで、そうした人について語った言葉である
(アダム・スミス曰く、)
[体系の人は・・・、チェス盤上でさまざまな駒を指し手が配置するのと同じくらい容易に、大きな社会のさまざまな成員を自分が配置できると想像しているようである。
チェス盤上の駒は、指し手が押しつける原理以外の運動原理をもたないが、人間社会という大きなチェス盤の中では、どの駒もみな、立法府が押しつけたいと考える原理とはまったく異なる、それ自身の運動原理をもっていることを彼はまったく考慮していない。
もし、それら二つの原理が(法の下の政府と法の下の自由という原理によって)一致して同一の方向に作用するならば、人間社会というゲームは容易に調和しながら進み、幸福で成功したものとなるであろう。
もしそれらが対立したり食い違いを見せたりするならば、そのゲームはみじめなものになり、社会はいつも最高度の無秩序のなかにおかれるに違いない]。」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、106頁)
10)、11)「人間の行為の結果ではあるが、設計の結果ではない自生的秩序」について。
ハイエク曰く、
「彼(=バーナード・マンデヴィル)の中心的な主張は、簡潔に次のようなものとなった。
すなわち、社会という複雑な秩序においては、人間の行為の結果は、意図していたものとはきわめて異なるということ。
個人は自らの目的を追求することで、それが利己的であろうと利他的であろうと、予想したりおそらく知ることさえない、他者にとって有益な結果を生みだすということ。
そして最後に、社会の全秩序と、さらに文化と呼ぶものすべてまでもが、そうした目的を全く考慮することがない個人の努力の結果であるが、しかしそうした努力は、意図的に考案されたものではないが、有益だとわかったものが生き残ることで成長してきた制度や慣習やルールによって、そうした目的を生みだすよう導かれるのだということ。
こうした幅広い命題を彫琢するなかで初めて、マンデヴィルは、秩序だった社会構造の自生的成長のあらゆる古典的範例、すなわち法や道徳、言語、市場や貨幣、さらに技術的知識の成長について論じたのであった」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、53~54頁)
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、138~140頁――
法と行為の自生的秩序
自由主義理論が正しい行為のルールを重視したのは、このルールが、それぞれの知識をもちいてそれぞれの目的を追求しているさまざまな集団や個人の行動を律する自然発生的な自生的な秩序の維持に不可欠であるという見識にもとづいている。
18世紀自由主義の偉大なる創始者、デイヴィド・ヒュームやアダム・スミスは少なくとも、利害が自然に調和するとは考えておらず、逆に、さまざまな個人の多様な利害は、行為についての適正なルールを遵守させることで調和させることができる12と考えていた。
同時代のジョサイア・タッカーがいったように、「(行為に関する正しい行動のルールを遵守することで)人間を突きうごかす普遍の力(=人間本性)、つまり自己愛13を、自らの望みを満たすための努力によって公共の利益も促進できるような…方向に向かわせることができるかもしれない」。
18世紀の著述家たちは、法哲学者であると同時に経済秩序を研究する学徒(=経済学者)でもあった14。彼らの生み出した法概念と市場メカニズム理論は密接に結びついていたのである。
私有財産制度と契約の履行を中心とする法の規定を受け入れなければ、個々の人間の行動計画を調整することなどできないと、彼らは理解していた。
(法と法の遵守が)そのような調整を行うからこそ、すべての人間にそれぞれの行動計画を遂行する可能性が生まれるのである。
これ以後の経済理論がより明確にあらわしたように、(私有財産制度と契約の履行などに関する法が)個々の経済計画を相互に調整することで、人びとは自らの知識、技術をもちいて自らの目的を追求しながらも、他者のためにも行動することができる15のである。
行為ルールの役割は、個人の行動を共通の目的に向けて組織化することではなく、各個人が、他者の(=他者による他者自身のための)目的追求のための行動からも最大限恩恵を受けることができる行動秩序を保障することである。
そのような自生的秩序の形成を導くルールは、これまでの長いあいだの実験(=文明の漸進的な進化の経験=伝統・慣習)の成果であると考えられる。
さらなる改善も可能だが、ゆっくりと段階的に、新たな実験(=進化の経験)が望ましい結果をもたらすかどうかを確認しながら進めていかなければならない。
自然発生的秩序の最大の利点は、個人が、自分のためであれ人のためであれ、自由に自らの目的のために動くことができるということだ。
また、(自分の知識だけでなく)その時と場所に存在する知識を利用することも可能になる。
この知識は、個々人がもつもので、支配権を有する単一の権威が所有するものではない。
この秩序では、統制経済制度の下よりも多くの知識を活用できる。
それが、社会全体として最大の成果を生みだすことに繋がるのである。
そのような秩序の形成を、適正な法のルールの規制の下に機能する市場の自生的な力にまかせることで、より包括的な秩序の形成を保障し、特定の場合(=個別の事象)への適応力も高めることができる16。
また、この秩序の具体的な中身については、意図的に管理できるものではなく、偶然に支配されることが多くなる。
法のルールの枠組みと、市場秩序形成のためのさまざまな制度は、その秩序の全般的、抽象的特性を規定することはできるが、特定の個人や集団に対する影響の中身(=抽象的ルールを遵守して為された特定の行為の結果)までは決めることはできない。
すべての人びとに多くの機会をもたらし、各個人の成否(=結果)についてはそれぞれの努力にまかせるということにこの方法の意義がある。
そして、個人や集団の得る結果は、自分たちにも他人にも決めることができない、予測不可能な状況(=偶然=運)に左右されるのである。
アダム・スミスの時代以来、市場経済において個人の取り分が決まるプロセスはゲームにたとえられてきた。
結果は個人の技術と努力、そして、運によって決まるのである。
個人がこのゲームに参加するのは、参加することで自分の取り分が含まれる賭け金がどの方法によるよりも増えるからである。
だが同時に、個人の取り分はあらゆる種類の偶然に影響を受けることにもなり、個人の努力の中身とか他者による評価とかには比例しないこともある。
この状況が提示する、公正ということについての自由主義の概念について話を進める前に、自由主義の法概念が体現することとなった制度について考える必要がある・・・。
※〔 〕内:ハイエク。
( )内、アンダーライン、上付数字:私〔=ブログ作成者〕。
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、138~140頁――
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【平成23年12月30日神戸発】
エドマンド・バークを信奉する保守主義者
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