保守主義の哲学---「人権」についての考察(第2弾)---21世紀日本国へ送るバーク保守哲学による人権批判論(その1) [政治]
「人権(=人間の権利)」についての考察(第二弾)
法と自由と道徳(義務)の関係
道徳(義務)と権利と権利行使の自由の関係
に関するバーク保守主義(哲学)および英米系憲法学的考察について(その1)
21世紀の日本国及び日本国民の「人権呪縛」「人権金縛り」から身を守る理論的武装としてのバーク保守主義(哲学)
読者の皆さん、こんにちは。いつも私の拙いブログを読んで頂き、感謝しております。
今回は、人権シリーズ第二弾の続編であり、“日本国法”・“自由/道徳”・“国民の権利及び義務”の関係についてエドマンド・バーク保守主義(哲学)の観点から解説したいと思っている。
ところで、日本国民は総体として、「権利と義務の関係」が全くあるいは殆ど理解できていないという惨状である。例を二つ挙げる。
(例1)読者の皆さんの多くは、日本国憲法の「第三章 国民の権利及び義務」における、第十条~第四十条のうち「国民の義務」は、第二十六条の「子女に普通教育を受けさせる義務」と第二十七条の「勤労の権利及び義務」と第三十条の「納税の義務」のみであって、その他の条項はすべて「国民の権利」に関する条項だと思っているだろうし、そう教えられてきたはずである。「そう思っていた」という人は、失礼だが、この時点で「アウト」である。「権利と義務の関係」が全く解っていない。
(例2)「ある支配者(あるいは支配集団)が支配の権利(支配権)を行使する時、被支配者(被支配者集団)はその支配の権利に従う義務があるか?」という設問の立て方に違和感を覚えない人。失礼だが、この人も「アウト」である。「権利と義務の関係」が全く分かっていない。
よって以下、最初に「権利と義務の関係」を厳密に解説した上で、日本国憲法の「第三章 国民の権利及び義務」について皆さんと共に考察したいと思う。
(1)“法の支配”・“立憲主義”と“道徳と一体の(=分離できない)自由”の関係(=バーク保守主義の根本原理)
①日本国法(=憲法)による支配(=法の支配)
“日本国法”と“法の支配”と“立憲主義”の詳細については本ブログの「人権シリーズ第二弾(その1)」を参照いただきたい。
なお、注意点は、“日本国法”とは日本国の慣習や伝統なども含めた概念であり、本来、これを日本国の“憲法(国体)”という。
英国の“憲法”はまさにこの概念である。
大日本帝国憲法(明治憲法)や日本国憲法とはこの“日本国法=憲法(国体)”の根幹部分(=一部分)のみを明文化した成文憲法である。
だから、本来、日本国民は、成文憲法の「日本国憲法」みならず、不文の日本国法(=憲法)である伝統や慣習なども尊重し、遵守すべきなのである。
②立憲主義
本来は、“英国法=憲法(国体)”のように“日本国法=憲法(国体)”によって政治権力の不当な行使を拘束・制限し、統治機構の構成と権限を定めて、「生命/安全・私有財産・自由/道徳」の保障・擁護を図る原理を言う。
日本の憲法学では、成文憲法である日本国憲法のみを、「憲法」と解釈する狭義の定義が定着している。
憲法は、第一に、日本国の祖先から、現世代に世襲(相続)された「自由/道徳・生命/安全・私有財産〈私的所有〉」(→これらは、その他の権利の所有と権利の行使を保証するのに不可欠な基本三権利である。以後、基本三権利とする)を保証・擁護し、
第二に、これらの基本三権利を基礎として、その他の「国民の〈権利の所有の自由〉と〈権利の行使の自由〉」を保障・擁護する(→もちろん、その他の国民の諸権利も基本三権利の基礎の上に立って、祖先から世襲(相続)された権利である)。
以上の内容を図にまとめると、以下のとおりである。
(2)「権利と義務の関係」の根本原則は、「権利行使と結果責任(義務)の一体(一対)の原則」である。
①上記(1)により、日本国法(憲法)によって擁護される世襲(相続)の自由は道徳(義務)と一体である。→「道徳(義務)と一体の自由」
②この「道徳(義務)と一体の自由」が「国民Jの権利行使の自由」を保証・擁護する。
③この「国民Jの権利行使の自由」の「自由」は道徳(義務)と一体であるから、「国民の権利行使の自由」によって生じた結果に対しては、必然的に権利行使をした国民J自身がその義務(責任)を負い、他者が負うことは決してない。(ただし、国民Jが未成年である等により、責任能力のない場合は当然適用除外である)→「権利行使と結果責任(義務)の一体(一対)の原則」
以上の内容を図にまとめると、以下のとおりである。
(3) バーク保守主義の根本原理である“法の支配”・“立憲主義”と「権利侵害・権利闘争」の関係
①“日本国法の支配”・“立憲主義”が十全に機能している場合
②“日本国法の支配”・“立憲主義”の機能が低下した場合
③“日本国法の支配”・“立憲主義”の機能がほぼ消滅した場合
(③の場合の解説)
“法の支配”・“立憲主義”が機能不全に近づくことよって、国民の自由は“無法・無道徳の自由”となり合憲的法律などの法規範による抑制(紺色太線)もその合憲性の根拠と効力を失いはじめるため、諸個人の権利行使の暴走を抑制・制限するバリアーが無くなる。同様に、政治権力の暴走も抑制・制限できなくなる。
そして、諸個人の権利行使が激しく衝突し、権利侵害と訴訟が頻発する。こうなると、もはや権利行使自体が不可能となり、無価値となる。
この時、諸個人は権利侵害と訴訟を避けるために階級組織・家族/親族の血縁組織・檀家/氏神の信仰に基づく組織・地縁に基づく近隣居住者のムラ組織などの「中間組織」の絆から切断されるが、切断後に個人が得るものは、「耐えがたい孤独(=道徳のない空虚な自由)」と「全ての権利行使の無価値性からくる悪魔的恐怖」と「無道徳的な劣情」への隷属である。
そして、日本国民は国家喪失の根無し草的個人、アトム的個人、すなわち祖国喪失の「地球放浪者(=ディアスポラ)」となる。
もはや、どこにも自己の権利と権利行使の擁護を頼る存在はない。いわゆる日本国の「アナーキー状態」へ移行する。
このとき“法の支配”と“立憲主義”という抑制・制御装置を失った国家(=政治権力)は国家(=政治権力)を維持するために、
第一に、“法の支配”に基づかない、「人間の意志」に基づく悪法律による権力の行使によって諸個人の権利行使を抑制し、あるいは簒奪する。(=ナチス・ドイツ下の“法の支配”のない「法治主義」状態である)
第二に、国家(=政治権力)は、権利行使の自由を簒奪したアトム的かつ無気力的な諸個人を国家的集団として再統合する必要が生じる。
この時、依然として自己の権利行使の自由を主張する諸個人や組織による抵抗運動は、国家(=政治権力)によるテロルによって大量殺戮されるに至る。
この自国民または他民族の大量殺戮へ至る過程は、フランス革命(ルソー的全体主義思想)、ロシア革命(ソ連=マルクス・レーニン主義)、ナチズム(国家社会主義+ヘーゲルの歴史哲学の継承による民族至上主義)、毛沢東の共産中国(→毛沢東はルソー主義者)による大躍進政策・文化大革命、北朝鮮労働党の共産主義(=主体思想)、ポル・ポト派(→ルソー主義者ら)のカンボジアの歴史事実が証明済みである。
このような“真正の自由がゼロ”の似非自由を「自由(=実体は、人民の最貧困の平等)」と詭弁して憚らない非・人間の極みが社会主義者・共産主義者などの極左・左翼主義者である。彼らは決して平和主義者でも国民の権利擁護派でもない。それらは偽りの仮面である。
彼らこそ、”真正の自由がゼロ”という似非自由を「自由」と詭弁して憚らない「非・人間」→「非・国民」であるのであるから、彼らには、一切の「人権(=人間の権利)」も「国民の権利」も適用除外とするのが、「論理的には自明の原理」であろう。
しかしながら、“法の支配”・“立憲主義”を理論的支柱とする、バーク保守主義者が、このような非・人間的な思想の保持者らに対してであっても、彼らの「すべての権利の剥奪」という論理的な思弁の領域にあるものを、その領域を踏み越えて実行に移すならば、“法の支配”・“立憲主義”に反するから、自己矛盾に陥ることになる。
ただし、敵なる社会主義者(共産主義者)が思弁の領域を踏み越えて、“日本国法の支配”と“立憲主義”を完全に無視して、上述の旧ソ連等の全体主義国家の行為を、日本国内において実行する動作を少しでも見せるならば、その時には、バーク保守主義者は“日本国法”を守護する毘沙門天の如くになり、言論攻撃を捨て、真剣/神剣を抜いて、彼らと全面戦闘し、彼らを完全抹殺することに一切躊躇はしない。
“日本国法”を破壊する人間とは、“日本国法”に保障・擁護された自己の生存権も放棄した証左であるから、一切の情け容赦をかけることはない。
なお、上記のバーク保守主義(哲学)理論では、正当な「権利の行使」とは「道徳と一体の自由」によって行使されうるものであるから、権利の行使の自由が道徳を伴わずに行使された場合は“日本国法違反”・“憲法違反”であり、「違法な権利行使」として却下されなければならない。
なぜなら、自由と道徳を一体にした、“真正の自由”を存在せしめているのが“日本国法”であり、“憲法”であるからである。
この意味において、非人間的で悪魔的な「人間殺戮につながる思想」の言論・出版・集会などの「表現の自由」は、「表現という権利行使の自由に道徳を伴っていない」のであるから、明らかに憲法違反の「違法な権利行使」である。
故に、このような憲法違反の違法な権利行使について、何らかの強い規制と重い罰則を設けることは、決して「権利侵害」などではなく、むしろ“合憲・合法”であり、国家・国民の利益に適っているのである。
つまり、その思想に従えば、必然的に社会(国家)を滅亡・消滅へ導き、国民の大量虐殺や最貧困の平等という惨劇をもたらすことが、過去の歴史経験によって自明であるような「凶悪思想」の論説や論文を書籍や新聞として日本国中に撒き散らす行為は、決して「表現の自由」だと錯覚・誤解して許可してはならず、逆に、憲法違反の似非「表現の自由」であるとして、禁止処分とすべきである。
多くの事実の偽造記事を書き、国民をその都度煽動しながら、偽造が発覚しても謝罪もしない、責任もとらない、傲慢不遜の全国紙の某大手左翼新聞社や全国の地方新聞社に左翼思想を配信し続けている某某通信社などは、即刻、改善命令あるいは休刊/廃刊の処分を下すべきである。
ここで、私が言う「凶悪思想」とは、具体的には、無“法”(=伝統や慣習の破壊を含む)・反国家・反国民・無道徳・無秩序・反宗教などを「是」とする思想のことである。
保守主義の哲学---「人権」についての考察(第2弾)---21世紀日本国へ・バーク保守哲学による人権批判論(その2)へ続く
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