保守主義の哲学---「人権」についての考察(第2弾)---21世紀日本国へ・バーク保守哲学による人権批判論(その2) [政治]
「人権(=人間の権利)」についての考察(第二弾)
法と自由と道徳(義務)の関係
道徳(義務)と権利と権利行使の自由の関係
に関するバーク保守主義(哲学)および英米系憲法学的考察について(その2)
21世紀の日本国及び日本国民の「人権呪縛」「人権金縛り」から身を守る理論的武装としてのバーク保守哲学(その2)
(3)日本国民の「権利と義務の関係」の諸原則
上記(2)において考察した、日本国民の「権利と義務の関係」の諸原則を以下に整理する。
(原則1)憲法(=日本国法)によって保証・擁護された「国民の権利の所有」及び「その権利を行使する自由の所有」の原則
解 説:日本国民は、日本国憲法によって保証・擁護された「国民の権利を所有」すると同時に、「その権利を行使する自由を所有」している。ここで、権利を行使する“自由”とは、“道徳と一体の自由”としての“真正の自由”のことである。詳細は上記(2)を参照のこと。
(原則2)“真正の自由(=道徳と一体の自由)”に依拠しない「国民の権利」の行使は、違憲行為であり、正当な権利行使ではない。
解 説:上記(2)で解説したとおり、“日本国法の支配”・“立憲主義”の下にある、日本国民Aの自由は憲法(=日本国法)によって保証・擁護される。この事実は、他者であるすべての日本国民B,C,D,・・・についても全く同様であるから、すべての日本国民は他者の自由も保証・擁護する憲法(=日本国法)を遵守する義務(=道徳)が必然的に発生する。ここに、憲法(=日本国法)を媒介として、自由と道徳が切断できない一体のものとなる。
これが「道徳と一体の自由」であり、バーク保守主義では「道徳を伴う自由」、「1枚のコインの裏表の道徳と自由」、「真正の自由」などと定義し、この「道徳」をさらに「美徳」へと自己練磨することで、「道徳を伴う自由」は「高貴なる自由」・「美徳ある自由」へと昇華するのである。
バーク保守主義とは、日本国が、このような道徳・美徳に満ちた社会(国家)へ少しでも近付けるように日本国民に自助や克己や勇気などを自己練磨する精神を奨励し、主導する主義(哲学)と言って過言ではない。
(原則3)権利行使と結果義務の自己完結の原則
解 説:上記(2)で解説したとおり、
第一に、憲法(=日本国法)が自由と道徳を一体化し、その「道徳と一体の自由」が国民Jの「権利の行使の自由」を保証・擁護すること。
第二に、ある国民Jの「自己の権利の行使」の結果とは、「道徳(義務)と一体の自由」に擁護された「権利行使」つまり、「義務と一体の権利行使の自由」の結果である。
よって必然的に、その結果に対しては、国民J(権利の行使者自身)が、その義務(責任)を負う。ただし、権利の行使者自身が、未成年であるなど、責任能力が欠如している場合は、適用除外であることは読者の皆さんも容易に理解できるであろう。これを権利行使と結果義務の自己完結の原則と定義する。
ここまで、私の説明を概ね理解し、了解して頂いた読者の皆さんは、「冒頭の二つの例」に対する疑問は解けたのではないだろうか。
(例1)日本国憲法の「第三章 国民の権利及び義務」における、第十条~第四十条のうち「国民の義務」は、第二十六条の「子女に普通教育を受けさせる義務」と第二十七条の「勤労の権利及び義務」と第三十条の「納税の義務」のみであって、その他の条項はすべて「国民の権利」に関する条項ということではなく、前者の3つの「義務」の条文も内在的に「義務」と一体の「権利」を有している。逆に、後者の「権利」の条文も内在的に「権利」と一体の「義務」を有しているのである。
(例2)「ある支配者(あるいは支配集団)が支配の権利(支配権)を行使する時、被支配者(被支配者集団)はその支配の権利に従う義務があるか?」という設問の立て方は、支配者の支配の権利行使に対して、義務を負う対象が他者である被支配者になっている矛盾に気付くであろう。
これは、権利行使と結果義務の自己完結の原則に違反する。
つまり、支配者の支配の権利行使に対して義務を負うのは支配者自身である。被支配者が義務を負う必要は全くない。
同様に、被支配者の権利行使に対して、義務を負うのは被支配者自身である。
では、支配と被支配の関係はどう考えるのが正しいのか。その真の答えは以下のとおりである。
支配者が支配の権利を被支配者(他者)に対し行使した時、義務は支配者自身に対して生じ、その義務とは、支配秩序が崩壊しない程度において最大限、被支配者の「生命/安全・私有財産・自由/道徳」の基本三権利と「その他の被支配者の権利」を擁護する義務である。
この支配者の義務は、中世頃までは支配者が決定する(=人間の意志による)法律や規則や命令によるものであったため、被支配者の基本三権利を擁護する義務をも怠る支配者も多くあり、被支配者の権利行使の自由の擁護が不安定であり、「多数者による専制政治」や「専制君主」などが存在したのは歴史事実である。
しかし、そうであるからこそ、近代になって、英国の偉大な法曹家で保守思想家であるエドワード・コーク(=保守主義の開祖)→ブラック・ストーン→エドマンド・バーク(=保守主義の父)→各国の保守主義者の系譜
ブラック・ストーン→米国のアレクサンダー・ハミルトン(=米国保守主義の父・財務長官)/ジョージ・ワシントン(初代大統領)/ジョン・アダムス(副大統領)/ジョン・ジェイ(最高裁判所長官)/ノックス(陸軍長官)/ランドルフ(法務長官)などの米国建国の父ら(=国務長官トーマス・ジェファーソンを除き、すべてブラック・ストーンを継承する保守主義者であった)→以後の米国保守主義者の系譜
の保守主義者が“法の支配”・“立憲主義”を確立したため、立憲主義の近代国家では、支配者の義務は、“国法(=憲法)を遵守する義務”となったのである。
他方、被支配者は「自己の生命/安全・私有財産・自由/道徳」の基本三権利と「その他の被支配者の権利」を行使できる自由を、支配者の定めた法律や規則や命令によって擁護されていることに対して、被支配者自身に「支配者の定めた法律や規則や命令に服従する義務」が生じるのである。
そして、こちらも同様に、近代以降の近代国家では、“国法(=憲法)”が被支配者の権利行使の自由を擁護する“法の支配”・“立憲主義”の確立によって、被支配者の義務は支配者に対する義務から“国法(=憲法)”に対する義務に移行してきたのである。
ここに至るにおいて、支配者(支配集団)は“国法(=憲法)”に従う義務を有する統治者(統治集団)となり、被支配者も“国法(=憲法)”に従う義務を有する被統治者となる。
つまり、“法の支配”・“立憲主義”の確立された国家において、一見すると、統治者(国家権力)と被統治者(国民)の関係にある、国家権力と国民は、本質的には両者とも“国法(=憲法)”にのみ支配される被支配者なのである。
余談であるが、私の考える世界史上の奇蹟が二つある。
第一は、私が中川八洋 筑波大学名誉教授の著作から発見し、米国憲法の解説書『ザ・フェデラリスト』を精読して確認したことなのであるが、米国の憲法制定会議が、「制限君主制+制限貴族制+制限デモクラシー」という三本柱からなる混合政体の英国と同じ自由の原理が擁護される憲法を、「王なし+貴族なし」という「制限デモクラシー」一本だけの柱でつくる難業に成功した奇跡である。この「王なし」「貴族なし」のハンディキャップを超克しえた米国憲法は、人類の憲法史上の奇蹟である。世界最高の知的遺産の一つである。
日本国には嫌米主義者が跋扈しているが、嫌米であることと米国が偉大であることは、全く異次元の問題である。
パックス・アメリカーナ、米国一極構造、市場原理主義などと米国一国覇権であると批判し、世界金融危機以降は、それらが終焉したなどと、虚偽・妄想を騒ぎ立てる愚かな学者や評論家が日本には多いが、米国がこの地球上に存在しなければ、現在よりもすばらしい世界秩序がこの地球上に存在するという論理的証拠を明確にし、かつ米国以外で、地球上のどこの国が、そのすばらしい世界秩序をつくり得るのかを論理的に証明してから、米国中心の世界秩序を批判すべきである。ロシアや中共やEUに米国の代行をさせるのは、不可能であるし、人類にとって最も危険で不幸な選択である。
しかも米国は1929年のニューヨーク株式市場の株価大暴落に始まる世界恐慌をわずか5年間で乗り越えた超強大・超強力な国家である。
今回の世界金融危機においても、米国が倒れるようなことは100%あり得ないし、欠点はあるにせよパックス・アメリカーナが崩壊することなど万が一にもない。
米国の国力、経済的潜在能力を過小評価しすぎるのは米国について全くの無知である証左である。
第二の奇蹟は、我が日本国の万世一系(男系男子)の天皇制である。紀元前660年に神武天皇が即位して以来、今上天皇陛下125代まで約2600年以上に渡る万世一系の世襲の天皇(皇室)制と天皇制の守護を義務として子孫に世襲(相続)し現在まで継承してきた過去のすべての日本国民の祖先の偉大性である。
この事実は、過去の祖先から現在のわれわれ世代に至るすべての日本国民の人生リレーにおける天皇制というバトンの引き継ぎであり、リレー中にバトンを落としてもおかしくないし、バトンタッチに失敗することも多々あることである。しかしながら、われわれ日本国民は、歴史上の幾多の艱難を乗り越え、このバトンを確実に約2600年以上に渡って現在まで引き継いでくることに成功しているのである。このような奇蹟的天皇制を保持し、支えてきた日本国民は、その歴史事実自身において世界に誇るべき奇蹟的国民である。
私は、バーク保守主義(=真正自由主義)の立場から、支那事変を含む8年間の大東亜戦争を正当化することはしない。
それは主として帝国政府や帝国陸海軍の軍令部や参謀本部が為した昭和天皇の対英米戦争反対の聖慮の無視(=国法の無視)、真の戦争目的、全体主義国家との同盟締結、杜撰極まる戦争計画や遂行方法、非・人間性極まる玉砕や特攻命令などに対する批判からである。
しかし、国家の命令に従い、純粋に国家・国民・故郷・家族・その他の愛する人々を守らんとして戦場で玉砕しあるいは特攻に散華した、兵士たちの偉大な勇気と自己犠牲の精神は、最高の栄誉において未来永劫にわたり、讃えられ追悼されなければならないと考える。
大東亜戦争の8年間は、日本史上最大の惨劇の歴史であるが、われわれは、あの戦争から学んだ教訓は決して忘れてはならないし、繰り返してはいけない。
しかしながら、この8年間をして、日本国2600年間以上の歴史を否定し、歪曲してはならない。
8年と2600年、どちらが、日本国の真の歴史・文化・伝統・慣習・国民性を表現しうるのかは、小学校5,6年生でも丁寧に歪曲せずに正しい日本史を教えてあげれば、理解し納得するはずである。
(原則4)「国民の権利の所有」及び「その権利を行使する自由の所有」の峻別の原則
日本国民は、上記の(原則1)に基づき、憲法(=日本国法)によって保証・擁護された「国民の権利」を常時、自己の中に所有しており、以下の場合を除くいかなることがあっても「国民の権利そのもの」が消失することはあり得ない。
(イ)日本国民Jが憲法(=日本国法)と合憲の法律・政令・条例などの法規範の遵守義務を放棄した場合
(ロ)日本国民Jが国籍を放棄し、日本国民でなくなった場合@(ハ)日本国民Jが生命を失った場合
(ニ)日本国民Jが権利行使に対する結果責任(義務)能力が無い場合(未成年者など)
(ホ)日本国が憲法(=日本国法)による支配・立憲主義を放棄した場合
(ヘ)他国の侵略等の理由で、日本国が国家主権を失った場合
つまり、我々が「権利侵害」と定義することができるものは、「国民の権利そのもの」への侵害ではなく(=国民の権利そのものは観念であり、上記(イ)~(ヘ)の場合を除いて観念は消失し得ないから理論上、侵害し得ない)、「国民の権利行使の自由」の抑圧や制限や弾圧のことである。ここをはっきりと区別しておかなければならない。
(原則5)本来は、“立憲主義”とは、デモクラシーによる「議会の専制」を制限することである。
自由主義国家における、憲法の目的が「国民の自由の最大化」と「国民の倫理・道徳(義務)の向上」であるならば、道徳(義務)と背反する「権利の列挙」は憲法の目的に反するものである。
つまり、「国民の権利」条項を成文憲法に明記すれば、必ず政府権力が肥大化し、「議会の専制」を生じやすくするため、立憲主義の目的と背反するのである。
米国建国の父の一人であり、かつ米国保守主義の父であるアレクサンダー・ハミルトンは、このことについて次のように述べている(1787年10月27日)。
ハミルトン曰く、
「強固にして効率的な政府を熱望する一見厳しい外見よりも、むしろ人民の諸権利を標榜するもっともらしい仮面のかげに、かえって危険な野心が潜んでいる・・・歴史の教えるところでは、後者(人民の友といった仮面)のほうが、前者(強力な政府権力)よりも、専制主義を導入するのにより確実な道であった。そして、共和国の自由を転覆するにいたった人々の大多数は、その政治的経歴を人民への追従から始めている。すなわち、煽動者たることから始まり、専制者として終わっているのである」(A.ハミルトン・J.ジェイ・J.マディソン『ザ・フェデラリスト』、岩波文庫、2008年、19頁)
まさに、現在の民主党の姿そのものではないか。このようなことは米国では、米国憲法制定当時の1787年に悟っていることである。
甘い飴のような現金バラマキ型の政権公約(=権利確約)につられて、民主党に政権交代させた多くの日本国民は、はっきり言って申し訳ないが、自己の政治的な知的レベルの低さを恥じるべきである。
今年は2010年である。ハミルトン他、米国建国の父の上記の洞察は、1787年、223年前であり、日本国は江戸時代の話である。
上記のハミルトンらの思想の下、1787年制定の米国憲法には米国民の権利に関する条文は一切なかった。@デモクラシー派の巻き返しから、1791年に米国版「権利の章典(=米国民の権利)」十カ条が修正第一条~修正第十条として追加された。
追加十カ条は、政府権力(議会の専制)から米国民の権利を保護するという、自由の原理の正統理論に則ったものであった。
つまり追加十カ条は、政府権力が関与して容認したり、何らかの保障を与えたりするための「米国民の権利」を列挙しているのではなく、「連邦議会は、・・・国民が・・・する権利を侵す法律を制定してはならない」とか「国民が・・・する権利はこれを侵してはならない」とか「何人も・・・する権利は侵されない」という表現で、政府権力(議会権力)が関与して侵してはならない(=介入してはいけない)「米国民の権利」を定めているのである。
一方、日本国の社会保障政策などは、米国憲法の「米国民の権利」と異なり、日本国憲法上に規定された「国民の権利」である「社会権」に日本政府(政府権力)が財政支援などの保障を与える政策であるから、日本国民の社会保障の拡大要求(=社会権の権利拡大要求)に伴い政府権力(=政府の国民への干渉)も無制限に拡大していき、議会の専制を生む可能性が増大するのである。
「小さな政府」とは、政府権力を極力小さくして「国民の権利」への政府権力の介入度を極小化して政府権力の専制を防止する効果がある。
逆に「大きな政府」とは、国民が権利に関する保障の要求を政府権力に対して増大させるのに比例して、政府権力の「国民の権利」への介入度を極大化させ、政府権力が専制権力に反転する危険性を増大させるのである。
保守主義の哲学---「人権」についての考察(第2弾)---21世紀日本国へ・バーク保守哲学による人権批判論(その3)へ続く
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