保守主義の哲学---自由主義諸国は、自由の守護神「法の支配」の再強化・再構築が急務である! [政治]

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〔Ⅰ〕“法の支配”と「法治主義」を明確に区別せよ!

法の支配”は、全体主義を防止するが、「法治主義」は全体主義と容易に結びつく。つまり、“法の支配”のある国家では「法治主義」は正しく機能するが、“法の支配”のない(or衰退した)「法治主義」は、自由を消滅させる「全体主義」となり得る。歴史的には、“法の支配”が消滅し、「法治主義」が「人定法主義(legal/law positivism)」と結び付いたのがヒットラーのナチズムであった。(※ 旧ソ連中国共産党などの共産主義国家は、戦争や暴力革命によって政権を奪取したのであり、公正な選挙によるものではないから、ここでの議論では「端から論外」ということ。共産党の命令が唯一絶対である「共産主義体制」に“法の支配”の存在の云々を語ること自体が無意味。)

中川八洋 筑波大学名誉教授曰く、

「法治主義とは、モール/シュタール/グナイストらによって19世紀の近代ドイツで完成されたもので、法律が国家権力の行使を厳格に定め、とくに行政と司法をして法律に従って行わしめることをいう。

 ドイツにおけるこのような《法治主義》が《人定法主義(law positivism)》---《法実証主義》は誤訳---と合体するとき、ヒットラー・ナチズムという《法治国家》が生まれたのである。ユダヤ人を絶滅する反倫理性をきわめた、あの悪法を含め、独裁者のあらゆる命令が法律として施行されれば、この法律に従った《法治主義》行政こそ反正義・反倫理・反道徳の国家をつくりうることを証明したのではないか。

 手続きがルールに合致してさえいれば、いかなる内容のものも法律として制定できるというのが《人定法主義》である。そして、合法的に制定された法律に従った行政は、ユダヤ人大量虐殺のように、その法律が法律であるかぎりいかに常識において非道なものであっても、この“合法”であることにおいて何ら非はないと考えるのが《法治国家》の思想である。

 しかし、《法の支配》が存在していれば、無差別殺戮など“法”に反する法律は制定することはできない。また仮に、制定されても、裁判〔司法〕において争い、それを“無効”に至らしめることができる。法律が“法”の下にあってその支配を受けるからである。

 ナチズム体制下でのユダヤ人大虐殺は、1935年の《人種法令》という法律〔ライヒ議会で制定〕に基づいた行政の一つである。これこそは、《法の支配》が存在しない、ドイツ産《法治主義》がいかに暗黒の側面をもつかを歴史的に証明したものであった。」

---以上、中川八洋『保守主義の哲学』、PHP研究所、80~81頁より。

さて、この「全体主義体制」を防止する唯一の鍵である“法の支配”が現在、消滅の危機にある。

国連と世界各国政府が行っているコロナ対策、とりわけ、「ワクチン義務化」や「ワクチン・パスポート(ワクチンの間接的義務化)」に見られる、「政府権力の暴走」や「行き過ぎた官僚主義(bureaucratism)」などによる諸個人の生命/安全及び自由と諸権利に対する侵害・迫害の背景(深層)には、“法の支配”や“権力分立”などの“自由主義の伝統と原則”を軽蔑して排除し、政府権力(=行政権力)の裁量権の拡張を目指してきた「人定法主義(legal/law positivism)」や「社会主義法学」等の自由社会(国家)への深い浸透がある。また、この問題は「コロナ(ワクチン)政策」に限られたものではなく、すべての政治・経済政策に共通して当てはまる、現代自由(民主)主義の根本的病弊とも言える問題である。

では、“法の支配”の衰退消滅とは何を意味するのか。どのような現象として現れるのか。それは、“法の支配”を攻撃する「人定法主義」や「社会主義法学」の主張を列挙することで、明確化されて理解しやすくなる。

その主張の概要をいくつか列挙してみよう。

・ 民主的政府・議会の多数派の権力に対するすべての制約・制限を一掃したい

・ 自由主義から民主主義を解放する

・ 国家と法秩序は同一であるゆえに、専制国家(専制主義)も法治国家でありうる。すなわち、国家の行為(立法)は、制定手続きを踏みさえすれば、すべて「合法」である

・ 法の支配の下では、国家は不自由であり法の捕虜である

・ 法の支配の伝統的概念は、形而上学的迷信である

・ 自由な国家は思いどおりにその国民を扱うことのできるものでなければ、ならない

・ 裁判官が政府の目的にかかわることなく正義の執行に関心を持っているという考えは笑い種である

・ 法の支配とは最高の立法機関としての議会が可決するものは何であれ法であるという意味である。

・ 民主主義においては多数が決定したものが常に正しい

裁判所の権力を制限し、行政機関の裁量権を拡張することが必要

行政的絶対主義(官僚主義)が必要。

・ 法の支配と権力分立という自由社会の伝統的原則への軽蔑

官僚(公務員)の利益を優先し、個人の利益を官僚(公務員)の利益に従属させる。

・ 支配者をあらゆる義務あるいは制約から解放する

・ 国家によって特別に許可されないものはすべて禁止される(=共産主義体制)。

・・・等々。

※ 以上は、すべて『ハイエク全集』、春秋社の中から抜粋、一部要約。

つまり、「人定法主義」や「社会主義法学」の主張とは、極簡潔に言えば、

(民衆の選挙によって選ばれた)民主政府は、手続きさえ踏めば、専制権力であってもよい(or政府や議会の権力は無制限であってよい)。

あるいは、「手続きさえ踏めば、政府の非人間的・無道徳的な暴政も、暴政ではない(とは言わない)。」

という、「民主政治における、専制政治(暴政)肯定論」に帰結する。

実際、人定法学者ハンス・ケルゼンはそう明言している。

〔Ⅱ〕法の支配は、政府権力を制限・抑制する自由主義原理である。

なお、“法の支配”とは、概説すれば以下のような原則を言う。

 “法の支配”とは「人間の意思(専制権力の恣意)」ではなく“法”によって統治されることを意味するが、具体的には「どんな権力も恣意的であってはならず、すべての権力がより上位の法によって制限されなければならない」とする原則であり、政府権力(行政権・立法権・司法権)を制限する原則である。法の支配の概念は次のような内容を包括している。

 .法の支配とは法律それ自体による支配ではなく、法律がどうあるべきかに関する規則すなわち超・法律的原則あるいは政治理念である法律(立法)が遵うべき上位の一般原則が“法”である。

 要するに、1608年に、御前会議で、エドワード・コーク卿がジェームス一世に述べたブラクトンの法諺の民主政治(民主政権力)への適用である。

Quod Rex non debet esse sub homine, sed sub Deo et Lege.国王はすべての臣民の上にあるが、神と法の下にあるべきである。

Then the King said, that he thought the Law was founded upon reason, and that he and others had reason, as well as the Judges: To which it was answered by me, that true it was, that God had endowed his Majesty with excellent Science, and great endowments of nature; but his Majesty was not learned in the Lawes of his Realm of England, and causes which concern the life, or inheritance, or goods, or fortunes of his Subjects; they are not to be decided by naturall reason but by the artificiall reason and judgment of Law, which Law is an act which requires long study and experience, before that a man can attain to the cognizance of it;

And that the Law was the Golden metwand and measure to try the Causes of the Subjects; and which protected his Majesty in safety and peace: With which the King was greatly offended, and said, that then he should be under the Law, which was Treason to affirm, as he said; To which I said, that Bracton saith, Quod Rex non debet esse sub homine, sed sub Deo et Lege.

---以上、『コーク判例集12』より抜粋。

 .立法府は一時的で即時的な目的の立法に際して、“法”の長期的で一般的な原則を犯してはならない。

ハイエク曰く、

「(法による立法権の制限の原則とは)特定の目的の達成のために、一時的な多数派の利用できる手段を、それよりずっと以前に別の多数派によって制定された一般原則によって制限することを意味する。あるいは別の言い方をすれば、特定の問題について一時的な多数の意思に従うという合意の基礎には、この多数派がいっそう包括的な集合体によって前もって制定されたもっと一般的な原則に従うという了解があるということである。」

「どんな人間も人間集団も自ら好む法律は何でも他の人々に課してもよいといった完全な自由をもつものではないことがわかる。これと反対の見解は、主権に関するホッブスの概念〔およびそれから派生した人定法主義〕の基礎にあるが、それは誤った合理主義(=デカルト的設計主義的合理主義)より生じる。この合理主義は自律的で自己決定的な理性を考え、すべての合理的思考が(より長期的で一般的な)信念と制度の非合理的枠組みの中で働いている事実を見逃している。」

(以上、『ハイエク全集Ⅰ-6「自由の条件〔〕」』より。)

「立法権はいくつかの(既に実践として守られている)共通のルールの承認を前提としている。そして立法に権力を与えるそのようなルールはまたその権力をも制限するであろう。構成員がある程度一致する意見をすでにもっているのでない限り、どんな集団でも明文化されたルールに合意するとは考えられない。」

(以上、『ハイエク全集Ⅰ-8「法と立法と自由〔Ⅰ〕」』より。)丸カッコ内:私の補足

 デモクラシーの多数決の原理(=一時的な多数者の権力)も“法”により制限される。

裁判官は法の口述者であるべきで、裁量権は法によって厳しく制限される

 .すべての法は将来に関する一般的なものなければならず、過去に遡及して適用してはならない。

〔Ⅲ〕liberty as power(権力としての自由)」は“individual liberty(個人的自由)”を圧殺する「似非自由」である。

 「権力としての自由」の危険性について、

F・A・ハイエク曰く、

「ひとたび、自由を権力と同一視することが許されると、《自由》という言葉の魅力を利用して個人の自由を放棄させる策略にも果てがなくなるのである。環境を支配する集合的な力の観念が個人的自由の観念に置き換えられ、そして全体主義国家において自由が自由の名のもとに抑圧されてきたのは、この曖昧な語法に助長されてのことであった。」(『ハイエク全集Ⅰ-5「自由の条件〔〕」、春秋社、29頁)

 曰く、

 「自由のこの再解釈はとりわけ不吉の感が強い。・・・アメリカではそれは《リベラル派の》人たちの仲間に有力な政治哲学の基礎として広く受け入れられるようになっている。コモンズやジョン・デューイのような《進歩派:progressive》の有名な知的指導者たちが広めて来たイデオロギーの中では《自由は権力である、特定のことをする有効な権力である》、そして《自由の要求は権力に対する要求である》、また強制のないこと(=個人的自由)は、単に《自由の消極面》にすぎないし、《権力そのものである自由Freedomのための一手段としてのみ尊重されるべきものである》とされる。このように、自由本来の意味と自由を権力とする考えとを混同することは、不可避的に富と自由を同一視することになる。」(同、30頁)

 ※ 丸カッコ内:私の補足。なお、ハイエクの言う「個人的自由」とは、常に“人間道徳”に裏打ちされた“法の下の自由”という意味で使用しているのであって、無制限の放縦や利己主義とは真逆の概念である。

 世界経済フォーラム(WEF)と関係の深い世界の政治リーダーには、この「権力としての自由」の信奉者を思わせる言動が目立つのは、WEFのグローバリズムが「グローバル・コミュニズム(共産主義)」だからであろう。要するに、自由社会の中に送り込まれた「似非自由主義者」ということになろうか?世界の諸国民は、彼らの今後の行動を監視すべきである。

 【私】→この人も世界経済フォーラム(WEF)のヤンググローバルリーダー出身者だというのだけれども、思考回路が「無茶苦茶」だね。
 この人が言う「皆が予想してきたもの」、「ワクチンの本来の役目を果たしている」の「真意」は一体、何だろうか?
 各国の公的データベースによれば、世界中の多くの人々が「ワクチン接種後に死亡」したり、「副反応・副作用に苦しんだり」しており、さらに、欧州医薬品庁は公式に「ブースターを繰り返し投与すると、免疫反応に問題が生じ、免疫反応が期待外れになってしまう恐れがある」と警告までしている。
 この状況の中で、NZ首相の言い切る
皆が予想してきたもの」、「ワクチンの本来の役目を果たしている」という発言は、それ自体、正常な思考回路の人間からすると「異様・不気味」であり(=ふつうは、発言できない)、我われとは真逆の「何かしらの他意」を(頭の中で想像しながら)話しているように聞こえないでもない。


 
→この人もWEF世界経済フォーラム(WEF)のヤンググローバルリーダー出身者だという。自分自身が「究極の差別主義」発言をしておきながら、「差別」とは、(極左思想家が主張する)「女性蔑視」と「人種差別」だけだと思っているようである。しかも、「(すべての人間に対する)危険なコロナワクチンの接種強制反対!」の運動が、「女性蔑視」と「人種差別」に一体何の関係があるのか?全くない!そして、こんな愚かな「政治指導者」を容認するかしないかの決定権が、「カナダ国民にある」のであって、その逆はあり得ない。トルドー氏の「このような人々を容認すべきなのか、選択を迫られている」の発言は、事実を転倒した狂言の類。そのうち、(WEF同胞の)フランスのマクロン氏と同様に、ワクチン反対派を「非国民」とでも言い出すのではないだろうか。

 なお、「真の差別」とは、

 政府権力が、“法の支配”を無視し、恣意的な強制---暴力だけでなく、立法措置による行動制限などの強制も含む---によって、「特定の属性の集団」を、“法の平等な保護”の下から排除し、その集団に属する人々の「生命/安全・私有財産・自由と諸権利」を侵害し、又は迫害を加えることを言う。何も「特定の属性の集団」が、「女性」と「人種」に限られるものではない。

《2022年2月10日》


 非常に残念です。

 真正の偉大な科学者であられた、モンタニエ博士の御冥福を心よりお祈りいたします。

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