保守主義Series-11(2)--- E・Burke『フランス革命の省察』に学ぶ;相続・美徳ある自由・家族 [政治]

 読者の皆さまには、いつも〔=ブログ作成者〕の稚拙な小論をお読み頂き、深く御礼申し上げます。

 さて、今回Series 11(2)は、前回Series11(1)の続編として、エドマンドバークフランス革命の省察』の中から、“相続美徳ある自由家族について、バークの主張を拾い上げ、若干の解説を加えたいと思う。

 さて、反日極左マニフェストを掲げる民主党の首相が誰にChangeしようとも無関係に、〔=ブログ作成者〕は社会主義共産主義思想唯一無比強力解毒薬である保守主義の父エドマンドバークの『フランス革命の省察』の最強保守哲学日本国民拡散し、徹底周知し続けることが徐々に民主党社民党共産党その他の社会主義政党などに徐々に破壊的打撃与えていくであろうと確信して、エドマンドバークの『フランス革命の省察』を真正保守自由主義の立場から正しく邦訳しなおして、逐次ブログに掲載し、日本国中復活させるスタンスを保守する所存である。

 読者の皆さまにおかれましては、我々祖国日本社会主義汚染から“道徳ある自由主義”・“確固たる立憲君主制議会制デモクラシー”の真正日本国の姿へと救出奪還復活するため、「極左カメレオン政党変色擬態

 (→野田内閣発足早々に予測通り、国家公安委員長厚労相・財務相経産相などの“暴言暴論”でその反日極左社会主義の本性露呈し始めた。)

 に決して惑わされることなく、“バーク保守哲学”、“真正保守自由主義哲学”の日本国全土への大拡散に、ご協力願いたい次第である。

 なお、邦訳文は、半澤孝麿訳(『フランス革命の省察』、みすず書房)を基礎として、細部について、前後段落等のバークの論旨忠実に従って、〔=ブログ作成者〕が補足更訂して理解しやすく改善したものである。

 なお、邦訳文中の( )内は〔=ブログ作成者〕が補足説明したものである。

 Through the same plan of a conformity to nature in our artificial institutions, and by calling in the aid of her unerring and powerful instincts, to fortify the fallible and feeble contrivances of our reason, we have derived several other, and those no small benefits, from considering our liberties in the light of an inheritance.

 Always acting as if in the presence of canonized forefathers, the spirit of freedom, leading in itself to misrule and excess, is tempered with an awful gravity.

 This idea of liberal descent inspires us with a sense of habitual native dignity, which prevents that upstart insolence almost inevitably adhering to and disgracing those who are the first acquirers of any distinction.

 By this means our liberty becomes a noble freedom.

 It carries an imposing and majestic aspect.

 It has a pedigree and illustrating ancestors.

 It has its bearings and its ensigns armorial.

 It has its gallery of portraits; its monumental inscriptions; its records, evidences, and titles.

 We procure reverence to our civil institutions on the principle upon which nature teaches us to revere individual men; on account of their age; and on account of those from whom they are descended.

 All your sophisters cannot produce anything better adapted to preserve a rational and manly freedom than the course that we have pursued, who have chosen our nature rather than our speculations, our breasts rather than our inventions, for the great conservatories and magazines of our rights and privileges.23

 23) Edmund Burke, “Reflections on the revolution in France”, Dover publications, Inc, pp.32.(『フランス革命の省察』、みすず書房、45頁に対応)

 我々は、自らが築き上げた制度の中で自然に従うという例の方法を通じて、そしてまた、誤り易くか弱い理性の考案物を補強すべく自然の不謬かつ強力な摂理の援けを求めることで、英国民自由相続財産として考えることによって、他の幾つかの原理――それらは、多大の利益を有する原理です――を導き出してきました。

 あたかも列聖化された祖先見ているかのように思いながら何時も行動すれば、それ自体としてはルールから逸脱したり過度になったりしがちな自由の精神と雖も、畏怖すべき威厳によって中庸を得るようになるものです。

 (自分たちが)この中庸を得た自由家系子孫であると考えることで、英国民は常に英国固有の尊厳意識するのです。

 そしてこの意識が、どのような名声であれ、それを最初に獲得した人々に、ほとんど不可避的に付きまとってその品位を汚してしまう、あの成り上がり者的な尊大さ自制するのです。

 このような方法で、英国民自由高貴な自由となり、堂々として荘重な自由となるのです。

 我々の自由には家系図があり、それを証拠立てる祖先もいます。我々の自由には紋章紋章旗もあります。

 そして肖像画廊記念の碑銘記録証拠称号もあります。

 我々は、個々人をその年功やその祖先(の功績)を理由として、人を尊敬すべきことを自然に学びますが、我々はまさにその原理に基づいて、英国の国家制度に対する崇敬の念を抱くのです。

 英国民は、自らの権利特権の偉大な保存所および倉庫として、思弁(=人間の理性)ではなくむしろ自然(=神の摂理)を、発明の才(=意志恣意)ではなくむしろ胸中の感情(=古き偏見)を選びまた。

 貴国(=革命フランス)の詭弁家達の誰であろうと、道理に適った高潔な自由を保持するのに適した方法として、我々英国民が求め辿ってきた道筋以上のどんなより良い方法も産み出すことはできない筈です。

 ―――――

 (3) 英国憲法の基本原理---自由相続財産

 〔=ブログ作成者〕の解説

 これについては、中川八洋(『保守主義の哲学』、PHP研究所)の以下の解説を参照頂きたい。

 ―――中川八洋『保守主義の哲学』、PHP研究所、152153頁(ここから)―――

 「自由相続」という、英国憲法原理の一つは、このように「自由の大憲章〔マグナ・カルタ〕」によって形成されたのである。

 マグナ・カルタはのち、32回も国王によって再確認されて生命を保ち続けた。

 また、17世紀初頭であったが、(エドワード・)コークの『英国法提要』第二巻の冒頭での解説もあって、近代英国憲法の基本文書の一つとなった。

 「自由相続」という英国憲法の原理は、それ以来、不動である。

 さて英国が自由を「世襲の原理」において体現するという天才的発明に成功したのは、国家を代々続く家族〔「」〕からアナロジカルに把握し、国家家族複合的一体化して透視したからである。

 このことは、バークの「世襲の原理」の説明(→本ブログの前回、保守主義Series-11(1)本文最終行を参照のこと)によく現われている。

 (バーク曰く、)

 「この世襲相続原理を選択するに当たって、英国民は、血縁関係のイメージをもって国体の枠組み把握してきました。

 即ち、英国国体を我々の最も愛する家族の絆と結び付けて、英国基本法を我々の家族の愛情で包み込みました。

 そして、英国の国家暖炉〔=国民各個の家族〕と墓標〔=祖先〕と祭壇〔=宗教〕を相互に不可分のものにするとともに、それらを全英国民が一緒になって、相互に通じ合う慈愛をもって暖かく大事に育ててきたのです」

 自由の権利を「世襲の原理」をもってその正当性の根拠とするのは、英国憲法の普遍の哲理である。

 が、バークはこれに加えてもう一つ重要なことを提示する。

 それは「世襲の原理」に基づく自由のみが、単なる自由ではなく、自由が「高貴な自由」「堂々として荘重な自由」「美しき自由」「倫理ある自由になるという“自由の高級化”の働きについてである。

 そして政治は「世襲の原理」に従えば、祖先の叡智をフルに活用できるばかりか、絶えず祖先に対して恥ずかしくないかと自問する「祖先の見ている前の政治」となるから、最高レベルへと向上する。

 (バーク曰く、)

 「英国民自由相続財産として考えることによって、他の幾つかの原理

 ――それらは、多大の利益を有する原理です――

 を導き出してきました。

 あたかも列聖化された祖先見ているかのように思いながら何時も行動すれば、それ自体としてはルールから逸脱したり過度になったりしがちな自由の精神と雖も、畏怖すべき威厳によって中庸を得るようになるものです。

 (自分たちが)この中庸を得た自由家系子孫であると考えることで、英国民は常に英国固有の尊厳意識するのです」

 そしてこの意識が、どのような名声であれ、それを最初に獲得した人々に、ほとんど不可避的に付きまとってその品位を汚してしまう、あの成り上がり者的な尊大さ自制するのです。このような方法で、英国民自由高貴な自由となり、堂々として荘重な自由となるのです」

 ※ 〔  〕内:著者の補足説明 、(  )内:〔=ブログ作成者〕の追加補足

 ―――中川八洋『保守主義の哲学』、PHP研究所、152153頁(ここまで)―――

 →さらに、同著の中から、家族国体憲法)と美徳ある自由に関するバーク保守主義哲学の重要な原理を一部抜粋・掲載する。

 この中川八洋氏の著作中の、“家族”を最小単位の核とする“中間組織”が破壊された場合に、人間が陥る生の顛末」に関するニスベットの分析については、現在の日本国民が拳々服膺して熟読すべき内容であろう。

 ―――中川八洋『保守主義の哲学』、PHP研究所、170171頁(ここから)―――

 「すべての階級区分は、もしそれが適切に秩序づけられていれば、どんな政体であろうと専制行き過ぎに対する強力な障壁〔バリアー〕となるのは真実である。

 ・・・これなくして、中庸の自由を守ることはできない」〔バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、234頁〕。

 個人は、自然的に成長してきた、階級という共同体家族親族という血縁の共同体教会を縁とする信仰の共同体を縁とする居住の共同体、・・・などの「中間組織」に何重にも属することによって、単なる「裸の個人」〔アトム〕にならずに済むだけではない。

 社会に浮遊する「裸の個人」になれば、国家権力が(法を無視して)個人に対する自由の侵害をするとき、自らの自由を守ってくれるバリアーは存在せず、直ちに自由を喪失する。

 個人は国家権力に対して砂粒にすぎない。

 また、民族伝統慣習、あるいはそれらがつくる権威は、これらの「中間組織」に宿っているのであり、「中間組織」で育たない限り、自己を認識できる健全な人格形成されない

 伝統慣習権威とが「人間を人格化する」のである。

 道徳的向上は、自卑心のなせるものだが、伝統慣習小社会共同体〕に生命を得ている権威への服従価値体系の共有〕において、この自卑心は生じるのである。

 ニスベットは次のように言う。

 「〔伝統的なしがらみからなる〕家族宗教団体地方生活共同体・・・〔という中間組織の〕から解放されたあとに人間が得るものは、自由と諸権利ではない

 耐え難い孤独恐ろしい不安悪魔的劣情への属である」〔ニスベット『共同体の探究』、梓出版社、28頁〕

 人間は(自分が)どう生きるかについての情報すら、「中間組織(→家族はその最重要基本単位である)」で訓練され学習しない限り、手にすることはできない。

 (祖先我々子孫へと世襲され、教育される)伝統慣習人間の行為の指針である。

 デモクラシー(の水平化・平等化原理)による、階級を含めた数多くの「中間組織」の解体弱体化は、必然的に人間の人格の破壊疎外深化もたらす

 「中間組織」が破壊されアトムを促すデモクラシー社会は、「根無草人間」「余白的マージナル」「憑依的妄想人間」「無規範アノミー人間」「孤独に苛まれる人間」〔ニスベット『共同体の研究』、梓出版社、18頁〕を増大させる。

 要は、自然発生的成長した種々雑多な「中間共同体」は、一切の過去から切断された(=「人間の意志」、「完成された人間理性」という妄想と傲慢に基づく)「社会契約」の人工的共生社会communeコミューン)〕

 ――レーニンの「人類世界共同体」やヒトラーの「民族共同体」――

 とは対極的に、過去から連綿とつづいている伝統・権威慣習棲息の場でもある。

 伝統権威慣習なくして個人自己を認識できない自己を発見できないから、「中間組織」を失った絶対的デモクラシーの共生社会では、精神的空虚冒され人格は空洞化ボロボロに崩れる虚無漂流する。

 荒涼たる原野を餌を求めてさまよう一匹の動物ごときものとなり果てる。

 「不安と孤独にさいなまれる人間」「無規範的人間無法者〕」「妄想人間」「幻覚人間」の増大は不可避となる。

 ※〔  〕内:著者の補足説明 、(  )内:〔=ブログ作成者〕の追加補足

 ―――中川八洋『保守主義の哲学』、PHP研究所、170171頁(ここまで)―――

 〔=ブログ作成者〕の解説

 ここで、中間組織の最小単位である家/家族の重要性についてSamuel Smiles, “CHARACTER”より一節を訳出して、紹介しておこう。

 ----- SAMUEL SMILES, “CHARACTER”, Serenity Publishers, LLC, pp.26-27. (ここから)-----

 Home is the first and most important school of character.

 It is there that every human being receives his best moral training, or his worst; for it is there that he imbibes those principles of conduct which endure through manhood, and cease only with life.

 It is a common saying that “Manners make the man;” and there is a second, that “Mind makes the man;” but truer than either is a third, that “Home makes the man.”

 For the home-training includes not only manners and mind, but character.

 It is mainly in the home that the heart is opened, the habits are formed, the intellect is awakened, and character moulded for good or for evil.

 From that source, be it pure or impure, issue the principles and maxims that govern society.

 Law itself is but the reflex of homes.

 The tiniest bits of opinion sown in the minds of children in private life afterwards issue forth to the world, and become its public opinion; for nations are gathered out of nurseries, and they who hold the leading-strings of children may even exercise a greater power than those who wield the reins of government.

 It is in the order of nature that domestic life should be preparatory to social, and that the mind and character should first be formed in the home.

 There the individuals who afterwards form society are dealt with in detail, and fashioned one by one.

 From the family they enter life, and advance from boyhood to citizenship.

 Thus the home may be regard as the most influential school of civilization.

 For, after all, civilization mainly resolves itself into a question of individual training; and according as the respective members of society are well or ill-trained in youth, so will the community which they constitute be more or less humanized and civilized.

 -----SAMUEL SMILES, “CHARACTER”, Serenity Publishers, LLC, pp.26-27. (ここまで)-----

 家とは、(人生における)最初で最重要の品性の学校である。

 人は皆、家において、最善の――最悪の場合もあるが――道徳教育(=躾)を受ける。

 なぜなら、人は、家において、品行の根本を学ぶが、それは、成人してから死ぬまで一生変わらないからだ。

 世間一般に、「礼儀作法を身に付ければ、人は一人前になる」と言われ、第二に「知性を養えば、人は一人前になる」と言われる。

 何れも正しいが、第三に言われる「家の教育(=躾)によって、人は一人前になる」というのが最も正しい。

 なぜなら、家の教育(=躾)には、礼儀作法と知性の教育のみならず、品性の教育も含まれているからだ。

 人は――主として、家の教育によって――心情を開花させ、習慣を形成し、智力に目覚め、品性を善良、邪悪のいずれにも為し得るのである。

 社会を支配する原理や格言は――直接であれ、間接であれ、すべて――家の教育という源泉から生起するのである。

 (国家の)法とは、(国家を形成する)家々の教育を反映した鏡像にすぎない。

 (家での)私生活において、子供の心に蒔かれた極めて些細な意見の断片が、その後、社会に向けて発せられて国民世論となる。

 というのも、子供が(成人して家の)子供部屋から外へ出て、社会に集合して国家となるからであり、子供を教導する権限を握った者が統治権力を掌握した者より、一層大きな権力を行使することができるからである。

 家庭生活は社会生活への準備であり、知性と品性が、家の教育において最初に形成されるというのは自然の道理である。

 将来、社会を形成する個々の子供は、家において、細やかに、その家の流儀で教育される。

 人の一生は家族から始まり、少年期から(社会人としての)大人へと成長していく。

 このように、家とは、最も影響力ある文明化(開花)の学校と言える。

 なぜなら、詰まる所、文明化(開花)とは、主として個々人の教育(の程度)に帰着するからだ。

 すなわち、社会全体の文明度(=善悪の程度)の大勢は、社会を構成員する個々人が青年期に受ける教育の善し悪しによるのである。

 ※ 邦訳:〔=ブログ作成者〕、(  )内:〔=ブログ作成者〕の補足説明。

【平成23910日掲載】

エドマンドバーク保守主義者(神戸発)  


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