保守哲学---(1) 與謝野晶子 評論集:「自由思想家」 [政治]

 読者の皆さまには、いつも〔=ブログ作成者〕の稚拙な小論をお読み頂き、深く御礼申し上げます。

 さて現在、〔=ブログ作成者〕は本ブログ「Series エドマンドバークフランス革命の省察』に学ぶ」において、保守主義バイブルであるエドマンドバークフランス革命の省察』を真正保守自由主義の立場から正しく邦訳しなおして、逐次掲載し、日本国中復活させ、真正保守自由主義哲学拡散していく作業を試行中である。

 そして、今回からこの作業に加えて、日本国真正保守自由主義者であった、與謝野晶子評論集(→現代日本社会では、全く公表されない與謝野晶子真像を表現した小論集である)を逐次公開していきたいと思う。

 〔=ブログ作成者〕は、この與謝野晶子評論集における思想が、必ずや現代日本国民の忘れてしまった大切なこと”を思い出させてくれるであろうと期待するものである。

 ―――『定本 與謝野晶子全集 第十九巻 評論 感想集 六』「自由思想家」、講談社、217219頁、昭和五十六年)―――

 自由思想家

 人は誰も一面には自由思想家であって欲しい。教育も此事(このこと)を標的として種種の科目を授けるものであって欲しい。

 自由思想家とは、愛を以て同情することが出来、趣味性を以て感激することが出来、理性(りせい)を以て思索することが出来ると共に、頑固(がんこ)で無く、狭量(きょうりょう)でなく、柔軟に自己を展開し、該博(がいはく)に外物を摂取(せっしゅ)し得る人である事を意味する。

 こう言う人は情味に於(お)いて思想に於いて共に奥行きがある。世の中が如何に変化しても自ら狼狽(ろうばい)すること無く、社会からも尊敬せられて重きを為すであろう。

 殊(こと)に青年は自由思想家でなければならない。白紙の頭脳に色色の知識、感情、思想を染めて、自ら豊麗(ほうれい)な人格を完成する意欲の旺盛(おうせい)なことが青年期の誇(ほこ)りである。

 青年が早くも功利思想に感染して、一身の利福の為(ため)に純情と正義とを閑却(かんきゃく)し、少少の邪道(じゃどう)や権道(けんどう)は目を塞いで飛び越えようとするならば、青年の自由を拠(よ)って却(かえ)って固陋旧式(ころうきゅうしき)の道を踏むものである。

 資本主義時代の初期にある我国では、何かにつけて唯物(ゆいぶつ)的傾向が勢力を持っている。大抵の人が経済的収穫を標的として多く行動し、自由に思想すべき青年までが早くも就職(しゅうしょく)に便利な学業を選ぼうとする。

 衣食の生活の不安に脅かされない者は殆(ほとん)ど無いと言う時代に此(この)事はや已(や)むを得ない現象であろうが、この傾向にのみ拘泥(こうでい)し、この以外に幾多(いくた)の思想のあることを疎略(そりゃく)にするならば、思想上にも実生活の上にも畸形(きけい)な生き方であろう。

 マルキシズム(→マルクス主義)よりレエニズム(→マルクス・レーニン主義、共産主義)へと言うのが、優秀な大学生間の近頃の研究題目であり、経済組織に由(よ)って左右される社会生活を不可抗力的のものと見て、其等(それら)の唯物思想を肯定し、其(それ)を人生の唯一の準拠(じゅんきょ)として万事を批判し照準(しょうじゅん)する傾向が著しい。

 この考え方は余りに冷たく且(か)つ非人間的である。言わば人間が物質に負けて隷属(れいぞく)した形である。併(しか)し思想は抽象的(ちゅうしょうてき)のものに外ならぬ。

 血あり肉ある人間の実生活には、人情があり、正義の欲求があり、物質を手段として人間の独立(どくりつ)を確保する自尊心(じそんしん)があって、是等(これら)のものが重要な勢力になって働いている。

 此事を忘れて、新しい一つや二つの唯物思想を其(そ)のまま実際社会に適用しようとするのは、鍋蓋(なべぶた)を以て海を蓋(ふた)しようと考えるのに等しい。人生は其等(それら)の思想の外(ほか)に洋洋としている筈(はず)である。

 人間をブルジョワとプロレタリアの二階級(かいきゅう)に分けて考える事なども一つの思想にすぎない。実際の社会には此の二階級が黒と白のように截然(せつぜん)と対立しているのでは無い、個人の頭の中にも、社会にも此の二つの思想が縺(もつ)れ合っている。

 現に私自身の思想にしても、ブルジョワに属(ぞく)した部分もあればプロレタリアに属した部分もあり、また其等の何れにも属しない部分もあって、私は自(みずか)ら二階級の何(いず)れに専属(せんぞく)しているとも断言が出来ない。

 現実を重んずると言う人達が案外(あんがい)この現実を正視(せいし)しないで、抽象的(ちゅうしょうてき)に分けた二つの階級をさながら具体的(ぐたいてき)に分立(ぶんりつ)し、対立して存在する事実のように速断(そくだん)している。

 傾向思想の中から参考(さんこう)となるものを選び採るのは善いが、其中の一つや二つを取上げて、其れ以外の考え方を古いものとして度外視(どがいし)するのは、人間自身を狭く窮屈(きゅうくつ)にするものである。

 新しい思想に感激して其れの魅力(みりょく)に牽(ひ)き付(つ)けられるのは意義ある事ながら、其れを絶対最善のものと思い込んではならない。

 また次にどのような新思想が現われるかもしれない、否(いや)屹度(きっと)現れて来るのであるから、目前(もくぜん)の傾向思想に囚(とら)われない心掛(こころがけ)が必要である。

 どの思想も必ず古くなる。レエニズムなど恐らく数年後には影が薄くなるであろう。その思想の本国であるロシヤには既に反動(はんどう)思想が発酵(はっこう)していると言うことである。

 飽迄(あくまで)も人間が主で、其他(そのた)の事物はすべての人間が自家用(じかよう)の為(た)めに駆使(くし)し取捨(しゅしゃ)するものである以上、どの思想にも惑溺(わくでき)すべきで無い。唯物思想に偏(へん)することも一(ひとつ)の迷信(めいしん)である。

 金銭の価値に人間が左右される大勢(たいせい)にあるのは事実ながら、この大勢を正しいものと決めてしまう訳にはいかない。

 この大勢に対して誰(だ)れも不満を実感している。誰れも出来る事なら、或る程度に経済生活の安心を得て、其れ以外の豊富な精神文化の生活を建設し享受(きょうじゅ)したいと願っている。此の欲求を生かす為(た)めには自由思想家の教養と態度とが必要である。

 目前流行の階級意識や唯物主義や過激(かげき)な破壊思想(はかいしそう)を超越(ちょうえつ)して大きく豊(ゆたか)に考え得る人間であらねばならない。私は此(この)意味で、欧米の国民が、日本の青年の近状(きんじょう)ほどにロシヤから来た一つの新思想に熱狂(ねっきょう)しないのを羨(うらや)ましく思っている。

 〔昭和2年(1927年)1011日〕

 ※ 旧漢字は、〔=ブログ作成者〕が、読みやすさを配慮して新漢字に改めた(→国文学者である與謝野晶子には叱られるであろうが)。

 また( )内の漢字の読み仮名や補足説明は、〔=ブログ作成者〕が挿入した。

 〔 〕は原文中にある( )を、〔=ブログ作成者〕が付した読み仮名や補足説明の( )と区別するために、〔 〕に置き換えたもの。

 なお、比較的簡単な漢字にも読み仮名を付したのは、意欲ある小中高校生、大学生、高齢者の方々などにも読みやすいように配慮したためである。

 ―――『定本 與謝野晶子全集 第十九巻 評論 感想集 六』「自由思想家」、講談社、217219頁、昭和五十六年)―――

【平成23717日掲載】

エドマンドバーク保守主義者(神戸発)