保守主義の哲学---D・ヒューム、E・バークの“憲法”とJ・ロックの「原始契約」について(2/2) [政治]

 ---D・ヒューム、E・バークの憲法とJ・ロックの「原始契約」について(1/2)の続き---

 ―――ヒューム『人性論』「原始契約について」、中公クラシック、211238頁から部分抜粋(つづき)―――

 道徳的義務の第二の種類は、原初的な自然本能によって支えられるようなものではなくて、完全に義務意識から行われるものである。

 それは、われわれが人間社会にとって必要なことを考慮し、もしそれらの義務が無視されたら社会を維持することができなくなると考えるからにほかならない。

 正義すなわち他人の財産の尊重とか誠実すなわち約束の履行とかが義務となり、人類にとって権威あるものとなるのはこのような場合である。

 なぜなら、だれでも他人より自分がかわいいことは明白で、各人はできるだけ多くのものを獲得しようと努めるものだが、このような自然の傾向を抑制できるものは、各人のそのようなわがままが有害な結果をもたらすことを、またそれによって社会の全面的な解体さえも引き起こされかねまいことを教える、あの反省と経験

 (→ヒュームの用いる「反省」や「経験」の意味は『人性論』第一篇第一部第二節、第二編第一部第一節、第三篇など参照のこと)

 以外にはないからである。

 したがって、この第二の種類の場合には、人間の生まれつきの傾向ないし本能は、その後の判断や観察によって制御されているのである。

 ところで、忠誠という政治的ないし市民的義務についても正義や誠実などの普通の義務について言われたことがそっくりそのまま当てはまる

 もしわれわれを導くものが原初的な本能だけであるとすれば、われわれは放埒な自由(=放縦の自由)にふけったり、他人を支配することを望んだりするのが落ちだろう。

 したがって、こういう根強い欲望を犠牲にしてまで、平和と社会秩序とのために尽くすようわれわれを仕向けるものがあるとすれば、それは反省以外にはない。

 実際、ほんの僅かばかりの経験と観察からだけでも、社会は統治者の権威なしにはおそらく維持されえないだろうこと、さらにまたこの権威も、もしもそれに対して厳格な服従が捧げられないならば、たちまち地に落ちてしまうに違いないだろうことは、十分理解されることである。

 以上のような、一般的でもあり、また明白でもある利益に対する考慮が、いっさいの忠誠の、また忠誠に付随する道徳的義務の、源泉である。

 右のように、忠誠も誠実も明らかに同じ基礎のうえに立ち、どちらも人間社会の明白な利益と必要とのために人類によって守られているように見える。

 とすれば、統治者に対する忠誠つまり服従の義務を、誠実つまり約束尊重の義務によって基礎づけたり(=論理的に説明しようとしたり)、さらにまた各人を政府に従属させるものは各人の同意であるなどと想定したりする必要は、いったいどこにあると言うのだろう

 これに対して、われわれが君主に服従しなければならないのは、あらかじめわれわれが、暗黙の中に、そのような約束を与えているからだ、と答えられるだろう。

 だが、なぜわれわれは約束を守らねばならないのだろう

 これに対しても、もしも人々が契約(=誠実の義務)を尊重(=遵守)しなかったならば、現に莫大な利益をもたらしている、あの人類間の商業取引(=経済上、商取引上の契約・誠実)がなんの保証も得られなくなるからだ、と主張されるに違いない。

 だが、そのように言われうるとすれば、そこからまた、もしも強者が弱者を、無法者が公正者を侵害することを防ぐ法律や統治者や裁判官(に対する忠誠の義務)が存在しなかったならば、人間は社会生活を、少なくとも文明的な社会生活を送ることはできないだろうという事(=甚大な不利益)も等しい権利を持って(=全く同様に)言われうるはずである。

 忠誠の義務誠実の義務とは全く同等な力と権威を持つものであるから、一方を他方に還元(→誠実の義務誠実の義務で、論理的に説明しようとすること、逆もまた然り)してみたところでなんの得るところもない

 両義務を確立するものは社会の一般的利益と必要とであり、それで十分である。

 政府に服従しなければならない(=忠誠の義務の)理由を問われた場合、私だったら、なんのためらいもなくそうしなければ社会が存続できないからだ、と答える。

 この答えは、明快で全人類にとってわかりやすいものである。

 ところが諸君の答えは、われわれは約束を守らねばならないから(=誠実の義務から)だ、である。

 だが、そんな答えは、哲学的な理論に習熟した人ででもない限り、誰にも理解されないし、また歓迎されもしない。

 そのうえ、なぜわれわれは約束を守らねばならないのか?と反問されれば、たちまち諸君は返答に窮してしまうだろう。

 …だがそれにしても、忠誠はだれに捧げられるべきなのか

 われわれの合法的な君主はだれなのか?

 この問題は、多くの場合、なによりもむずかしい問題であり、無数の論争の種になりがちである。

 けれども、われわれの現在の君主こそそうだ、彼は多年にわたってわれわれを支配してきた(かつ我々の祖先も黙諾して服従してきた)、あの連綿たる王家の直系の相続人なのだ

 (→日本国の皇統とは、初代神武天皇に起源し、二千年以上の歴史と伝統を誇る、世界比類の、万世一系・男系男子の皇統なのだ)

 と答えられるほどに人々が幸福である場合には、彼らのこの答えは、どんなに反駁されてもびくともしない

 かりに歴史家たちがこの王家の起源を最も古い時代にまでさかのぼり、この王家もその最初の権威を、よくあるように、やはり権力の奪取と暴力から得ていることを暴露したとしてもどうにもならないのである。

 個人的な正義つまり他人の財産に手を出さないということが、ひとつの極めて基本的な徳であることは確かである。

 けれども、われわれが理性的な立場に立つときには、土地とか家屋などの耐久財の所有については、それらが人手から人手へ渡っていく入手経路を綿密に調べてみると、そのどこかで詐欺や不正の臭いのしないものはひとつもないことが知られるだろう。

 だが、そのような厳密なせんさくは、人間社会の必要から、私生活においても公生活においても、許されないことである。なぜならもしわれわれが、可能な限りあらゆる観点から、ありとあらゆるあげ足取りの論理規則を駆使して、せんさく吟味する似非哲学の跳梁を許すならば、たとえどんな徳、どんな道義的義務であっても、たちどころに欠陥をさらさないようなものはないからである。

 ―――ヒューム『人性論』「原始契約について」、中公クラシック、211238頁から部分抜粋(ここまで)―――

 (3) エドマンド・バークの思想

 “現在の”英国王の統治権の起源(根拠)=《 【王制成立時の「原始契約」(=民衆の同意)】+【(コモン・ロー+成文憲法=英国憲法)】 》に基づく“王位の世襲継承法”の承認(黙諾)に基づくものとする。

 ゆえに、エドマンド・バークによれば、世襲継承したある英国王が「原始契約」を破棄すれば、英国民は「原始契約」破棄の責を問うこともありうるが、そのような場合でさえ、英国民は英国の新しい王位を自らの選択(選挙)によって自由に決定することはできず、かならず“コモン・ロー”及び“成文憲法”から成る英国憲法の“王位継承法”に従う義務がある(=王統を変更できる権利など無い)とするのである。

 なぜなら、“現在の”英国王位(王統)は、英国王制が成立して以来現在まで、英国王と英国民との両者の間で承認され世襲継承されてきた“英国憲法の支配”において法的根拠と効力を有するのであって、「原始契約」によってのみ根拠と効力を有するのではないから、「原始契約」が破棄されても、英国憲法が破棄されたわけではなく、現在の英国民には“英国王位(=王統)の世襲継承法を遵守する義務”が残存するからである。

 エドマンド・バーク曰く、

 「ジェームズ一世に発するブランズヴィクの血統(=王統)への王位継承が、我々の近隣諸国のどの王制よりも、むしろ我が国の王制を合法化することになるのはどうしてでしょう。

 確かにどの王朝の創始者でも、何らかの時点で、統治を求めた人々によって選ばれたことに間違いありません。

 選択の対象こそ多かれ少なかれ限られてはいたものの、ヨーロッパのすべての王国は遥か昔(=「原始契約」時)は選挙制であった、とする考え方には充分根拠があります。

 しかし、千年前の王が其処此処でどうであろうと、またイングランドなりフランスなりを現に治めている王朝の始まり方がどうであろうと、今日この時代、英国の国王は、英国法に従う、確固たる王位継承法に基づいて国王なのです。

 そして、英国王は、統治権についての法的な契約諸条項を遵守する限り〔実際には遵守されているのですが〕、個人としても集団としても、自分達の間では、国王選出の投票権など一票たりとも持っていない革命協会の選択(の教義)は一切無視して

 ――しかしながら、もし機が熟して彼らの主張が影響力を持つようにでもなれば、すぐに彼らは自分達を選挙人団に仕立て上げるだろうことを疑う余地はありません――

 王位を保持するのです」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、21頁、英語原文に基づき、一部〔=ブログ作成者〕が更訂した。Edmund Burke, “Reflections on the revolution in France”, Dover publications, Inc, pp.12-13.に対応

 「英国議会の両院は、かつてのエリザベス女王の法令から採用された極めて厳粛な誓約を含む一節を続けて置きました。

 それは、世襲の王位継承を擁護してこれまでなされた――また、将来にもなされ得る――最も厳粛な誓約であり、この革命協会によって彼らに帰させられた原理に対する及ぶ限り最も厳粛な否認でもありました。

 曰く、「聖俗の貴族および庶民は、上記全国民の名に於いて、我等自身並びに我等の相続人及び未来永劫子々孫々に至るまで最も謙虚かつ誠実に(世襲の王位継承に)従います。

 また、英国民は上記両陛下、及びここに明記され収められた王位の限定を、全力を挙げて護持する旨を誠実に約束します」云々。

 我々が名誉革命によって我々の国王を選挙する権利を獲得したなどというのは、全く真実からかけ離れています。

 仮に革命以前に我々そのような権利を所有していたとしても、英国民はその(権利の章典の制定)時点で、自らと自らの子々孫々すべてに対して未来永劫、極めて厳粛にそれを否認し放棄したのです」(バーク『フランス革命の省察』、27頁:既に〔=ブログ作成者〕が邦訳済み)

 「これら革命協会の紳士諸君は、自分達の(主張する)ホイッグ原理(=ジョン・ロック的な王位の「原始契約」説)について好きなだけ自己満足すればよいでしょう。

 しかし、私は(権利の章典を起草した)サマーズ卿以上に良きホイッグと思われたくは決してありません。

 名誉革命の諸原理をもたらした人々以上にそれら諸原理をよく理解したいとも思いません。

 また、あの不滅の法(=コモン・ローとしての王位の世襲継承の法)の言葉と精神を我々の国法と魂のなかに、洞察力にと富む文体によって刻み込んだ人々すらも知らない何らかの玄義を、権利の章典の中に読み込みたいとも思いません」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、27頁、英語原文に基づき、〔=ブログ作成者〕が更訂した。Edmund Burke, “Reflections on the revolution in France”, Dover publications, Inc, pp.17-18.に対応

 「例えば、上院は下院を解散する権限を(コモン・ローとして)道徳上持ってはいません。

 否それどころか、上院は自らを解散せしめることすらできませんし、たとえ望んでも、英王国立法部内での役割を放棄することもできません。

 国王は、彼自身として退位しようとしても、王制の国王としては退位するなど不可能です。

 同じほど強い理由、否一層強い理由から、下院は自ら分け担っている権限を放棄することはできません。

 (文明)社会の約束や契約(原文:the engagement and pact of society

 ――それらは通常、憲法(原文:the constitution)と呼ばれています――

 が、そうした(王国行政部や立法部の権限に対する)侵犯やそうした放棄を禁じているのです。国家(=政府)が(国家を構成する)個々の社会組織(→「中間組織」という)との間で信義を保持する義務を負っているのと同じく、国家を構成する諸部分(=中間組織)は、自分達(中間組織)相互の間で、また自分達(=中間組織)との約束の下に何らかの重大な利益を得ている人々(=個人)との間で、公的信義を保持する義務があります。

 さもなければ、(信義を保持する義務を伴う)権限と(義務を伴わない)権力はたちどころに混同され、法は残らず、(その時)支配を揮っている強制力の恣意のみが残るでしょう。

 この原理に則って、王位継承は昔も今も変わりなく、法による世襲継承でした。

 ただ、古き王統においては(不文の)コモン・ローによる継承であったのに対して、新しい王統においてはコモン・ローの原理に従って働く制定法(成文法典)による継承となりましたが、それによって(王位継承法の)実質が何らかの変更を受けたのではなく、(王位継承の)様式が規定され、かつ(王位継承権を有する)人物が明記されただけです。

 コモン・ローと制定法というこれら二種の法は、二つながら同じ強制力を有し、等しい権威に由来しているのであって、国家についての共通の同意と(英国王と英国民との間の王制の)最初の合意(原文:the common agreement and original compact )――「国家全体の共通の約束」――から発生し、またそのようなものとして、同意事項が遵守され、かつ英国王と英国民が同一の(王制という)政体を継承していく限り、等しく両者を拘束するのです」(バーク『フランス革命の省察』、28頁:既に〔=ブログ作成者〕が邦訳済み)

 ※ 引用文中の(  )内は〔=ブログ作成者〕の補足説明である。

 →〔=ブログ作成者〕の解説

 要するに、ジョン・ロックの思想は、“世襲の原理”、“臣民の義務”という概念が完全欠落した謬論である。

 逆に言えば、ジョン・ロックの思想は、「統治者の義務」と「臣民の権利(主権)」のみを強調し過ぎた偏向思想であり、一枚のコインの裏側のみを見て、表裏一体の一枚のコイン全体を見ない誤謬の「統治論」である。

 エドマンド・バークの

 「今日この時代、英国の国王は、英国法に従う、確固たる王位継承法に基づいて国王なのです」

 「世襲の王位継承を擁護してこれまでなされた――また、将来にもなされ得る――最も厳粛な誓約」

 「(文明)社会の約束や契約(原文:the engagement and pact of society――それらは通常、憲法(原文:the constitution)と呼ばれています――が、・・・を禁じている)」

 「公的信義を保持する義務」

 といった、“世襲の原理”つまり“世襲の王位継承法”や“世襲による英国民の自由や諸権利”の概念が全く存在せず、

 過去の祖先―現在の国民――未来の子孫へと繋がる世襲による“法”と“法の下の自由と諸権利”という歴史的連続性の概念が全く存在しないが、そのような現実社会は歴史上存在しない。

 歴史上のすべての時代に於いて「主権」は「現在生存する我々のみ」にあり、「過去の祖先らが連綿と築き世襲してきた国法や伝統や慣習など、我々が好き勝手に変革できる」とする誤った思想である。

 そもそも、現在の自分は何故この現世に存在しているのかを素直に問うてみれば、父母(の時代)在り、祖父母(の時代)在り、曾祖母(の時代)在り、・・・そしてこれら古来の祖先からの歴史的連続的な社会(国家)が存在し、それらを世襲継承してこなければ、万が一にも〔=ブログ作成者〕や読者の皆さんを含めた、我々現在世代の日本国社会や日本国民自体が存在し得なかったのであるから、

 我々は、もう少し、祖先への尊崇の念と子孫への思いやりと責任感への自覚を問い直すべき時であろう。

 ゆえに、「過去の祖先らが連綿と築き世襲してきた国法(国憲)など、主権者である現在世代が好き勝手に変革できる」などという、ルソーやマルクスやウェッブ夫妻らのフェビアン協会に起源するあらゆる共産主義や社会民主主義や国家社会主義あるいはポストモダン思想などの革新・革命・伝統/慣習破壊思想などは、

 すなわち「自己の生を全面否定/破壊する思想」であり、「自己の生の価値を喪失/棄却させる思想」であり、

 そのような思想からは、“真に善き生”を全うしようという意識・意欲は決して生まれえないでろうと〔=ブログ作成者〕は考えるが、読者の皆さんや多くの日本国民はどのように思われるだろうか?

【平成23730日掲載】

エドマンドバーク保守主義者(神戸発)  


保守主義の哲学---D・ヒューム、E・バークの憲法とJ・ロックの「原始契約」について(1/2) [政治]

 読者の皆さまには、いつも〔=ブログ作成者〕の稚拙な小論をお読み頂き、深く御礼申し上げます。

 目も当てられないほどに傲慢かつ無能に加え、国民騙しを続ける卑怯首相菅直人の率いる民主党政権醜態晒し続ける間に、エドマンドバークの『フランス革命の省察』における最強保守哲学日本国民拡散し、徹底周知しておくことがいずれ、民主党社民党共産党その他の社会主義政党などに破壊的打撃与えるであろうことを〔=ブログ作成者〕は確信して、エドマンドバークの『フランス革命の省察』を真正保守自由主義の立場から正しく邦訳しなおして、逐次ブログに掲載し、日本国中復活させる所存である。

 さて今回は、『フランス革命の省察』の次回邦訳予定のパラグラフを理解しやすくするために、“憲法(the constitution)”と「原始契約(the original contract)」という概念について、エドマンド・バーク、ディヴィット・ヒューム、ジョン・ロックらの思想を紹介しておきたいと思う。

 最初に、〔=ブログ作成者〕の結論を、「ごく簡潔に」述べれば、次のとおり。

 (1) ジョン・ロックの思想

 “現在の”英国王の統治権の起源=【王制成立時の「原始契約」(=民衆の同意)】のみに基づくとする。

 (2) ディヴィット・ヒュームの思想

 “現在の”英国王の統治権の起源(根拠)=「原始契約」時から現在に至るまでに歴史的に形成された英国王の統治権に対する英国民の“慣習的黙諾”と社会存続の明白な利益と必要のために遵守されてきた、英国王の統治権に対する英国民の“忠誠の義務”に基づくものとする。

 (3) エドマンド・バークの思想

 “現在の”英国王の統治権の起源(根拠)=《 【王制成立時の「原始契約」(=民衆の同意)】+【(コモン・ロー+成文憲法=英国憲法)】 》に基づく“王位の世襲継承法”の承認(黙諾)に基づくものとする。

 →〔=ブログ作成者〕の解説

 (1) ジョン・ロックの思想の場合、英国王の統治権の起源(根拠)を、王制成立時の「原始契約」(=民衆の同意)のみに求め、この「原始契約」に基づいて、臣民は暗黙のうちに、君主に対して抵抗権を保留しているとする。

 つまり、英国王の統治権は、もともと臣民が、彼らの所有物(生命、自由および資産)を保全する目的のために、すすんで国王に委託したものに他ならないから、英国王の統治権によって、不当にも原始契約を圧迫されるような場合には、臣民はいつでも英国王に対して反抗する権利(=民衆が契約を破棄して、民衆の同意さえあれば、自由に王位を選択できる権利)があるとする。

 ジョン・ロックは言う、

 「人間は自然の状態ではいろいろな特権があるにもかかわらず、その中にとどまるかぎりは、かえって悪条件のもとにある結果になるところから、すみやかに社会へと駆り立てられるのである。

 ・・・彼らはこのような不都合を避けるために、統治の確立した法のもとに避難し、そこに彼らの所有物の保全を求めるのである。

 そしてこのために、人々は各人一人一人のもっていた処罰権をすすんで放棄する。

 そしてこの権利が、自分たちの間でそのために任命される人々によってのみ行使され、またこの権利が、共同社会や、共同社会からそのための権威を与えられた人々が同意するような規則に従って、行使されるようにするのである。

 そしてここに、われわれは統治と社会そのものの本来の権利と起源のみでなく、立法・行政両権の本来の権利と起源を見るのである」(『世界の名著27』ロック「統治論」、中央公論社、272頁)

 「もし長期にわたる一連の悪政や言い逃れや策謀が、すべて皆同じ方向をたどり、それによって支配者のたくらみが国民の目に明らかなものとなると、国民は自分たちがどんな隷属状態にあるのかを感じ、自分たちがどこへ進みつつあるのかを悟らないわけにはいかない。

 そこで彼らが蹶起して、最初、統治が確立されたときのその目的(=原始契約)を自分たちのために確保してくれそうな人々の手に支配権を移そうとするのは、別に不思議なことではないのである。

 その目的が確保されていなければ、どんな由緒ある王家の名も、外見だけは立派な統治の形態も、自然状態や全くの無政府状態にまさるどころか、むしろ劣るものである」(『世界の名著27』ロック「統治論」、中央公論社、334頁)

 (2) ディヴィット・ヒュームの思想

 “現在の”英国王の統治権の起源(根拠)=「原始契約」時から現在に至るまでに歴史的に形成された英国王の統治権に対する英国民の“慣習的黙諾”と社会存続の明白な利益と必要のために遵守されてきた、英国王の統治権に対する英国民の“忠誠の義務”に基づくものとする思想。

 ヒュームの思想は、ヒューム(『人性論』「原始契約について」、中公クラシックス、211~238頁)を抜粋して掲載した。

 少々長文であるが、内容はさほど難しくないし、「王権神授説」や「王制の原始契約論(=民衆の同意)」の両極端の思想の誤謬を理解するためには、読者の皆さんもぜひ読んでおく価値ある内容であると考えて掲載したものである。

 ―――ヒューム『人性論』「原始契約について」、中公クラシック、211238頁から部分抜粋(ここから)―――

 (王権神授説について)

 さて『神』がいっさいの政府の究極の創造者であることについては、普遍的摂理の存在を認める人なら、つまり、宇宙におけるいっさいの出来事は一定不変の計画に従って起こり、思慮深い目的を目ざすように配慮されていると信じる人なら、誰でも異論はないだろう。

 人類が政府の保護もなしに、ともかくも快適な、または安定した状態で生活するなどということは、とても考えられないことである。したがって、この政府という制度は、確かにすべての創造物の幸福を図る、あの恵み深い神によって配慮されたものに違いないと考えられる。

 実際、この制度(=政府)は、どんな国、どんな時代にもあまねく見いだされる。したがってこのことからわれわれは、この制度が、いっさいを見とおすあの全知の神によって考え出されたものであることをいっそう確実に結論できるように思われる。

 けれども、この制度(=政府)が神によって創り出されたものであるからといって、何もそのために自然の一般的過程の中に介入するような、特別の奇蹟が行われるには及ばなかっただろう。

 むしろそれは、人間の目には見えないけれども、自然の一般的過程のうちに働いている、神の摂理の普遍的な力に基づくものであったろう

 (→〔=ブログ作成者〕の解説要するに、政府は神の創造物であり、神の摂理の普遍的な力に基づくすべてのものの一部であるという意味で「神授」とは言えても、他のものと比較して特別なものとは言えないだろうということ。トーリー党の掲げた王権神授説に基づく統治者の専制権力の否定である)。

 したがって、厳密に言えば、君主が神の代理者と呼ばれる場合にも、何もそのことには特別の意味は含まれていないはずである。

 つまり、およそ君主の権能に限らず、すべての権能というものは神に由来しているわけだから、従ってそれらの行為はすべて神の委任に基づいているとも言いうるという、ただそれだけのことでしかないはずである。

 つまり、現実に起こるいっさいの出来事は、神の摂理の一般計画のうちにあらかじめ含まれている。

 したがってこの点では、最も偉大な、最も合法的な君主といえども、下級の官吏どころか、王位横領者や山賊・海賊の類とさえも少しも異ならないのであって、彼らと同様、特別の神聖さや不可侵の権威などの要求できる筋合いはない(→王権神授説に基づく専制権力の否定)のである。

 (ロックらの「原始契約」論について)

 …ところでまた、すべての人々は、教育によってその能力が伸ばされるようになるまでは、体力においても、精神的な諸能力、諸機能においてさえも、そう大きな個人差はないと考えられる。

 とすれば、まず最初に彼ら自身が同意することなしに、彼らが一致して、あるなんらかの(自分たちと大きな個人差のない)権威に服するなどということはありえないことに思われる。

  つまり、政府の最初の起原は森林や砂漠のなかにまでたどられるとしても、政府のいっさいの権力の源泉は人民であって、人民が平和と秩序のために彼らの生まれながらの自由を進んで放棄し、彼らの対等な仲間から法律を受け取ったに違いないと考えられる。

 しかもその際、このような自発的な服従の条件となったものは、ある場合には明文化されたが、またある場合には、あまりにも明白なこと(→慣習など)だったので、何もこと改めて表現されるまでもないように考えられたのだと解されるのである。

 さて以上が原始契約と呼ばれるものの内容だとすれば、すべての政府が最初はこのような契約を基礎としていること、また、人類最古の原始社会でさえももっぱらこのような原理によって形成されたであろうことは否定されないだろう。

 (ロックらの「原始契約」論に対する反論)

 …現在の支配的権力は、海の艦隊や陸の軍団によって維持されてはいるが、明らかに政治的なものである。

 それは権威、つまり安定した政府の持つ効果に由来している。

 ひとりの人間の持つ自然的な力は体力と気力の範囲に限られており、それだけで多数の人間を一個人の命令に服させることは不可能である。

 したがって多数者自身の同意がなかったならば、また多数者自身の平和と秩序のもたらす利益に対する考慮がなかったならば、何物もそのような支配力を持つことはできなかっただろう。

 けれどもこの同意でさえ長い間いたって不完全で本格的な行政の基礎になるほどのものではなかった。族長は――おそらく彼の地歩は戦争中に築かれたものであろうが――命令よりも説得に頼って支配することのほうが多かった。

 したがって、このような社会は市民政府の状態と言えるものにはほど遠かったのであり、それにはまず族長が、実力をもって、反抗的な連中を押さえることができるようにならなければならなかったのである。

 さらにまた、服従全般に関して、ことさら契約なり協定なりが結ばれるということも、もちろんまだなかった

 そんなことは未開人にとって思いもよらぬことだった。族長がすすんで権威を行使したのは異例の場合であり、しかもよほど事態がさし迫った場合に限られていたに違いない。

 けれども、族長の介入に利点があることが気づかれるにつれて、このような権威の行使は日ましに頻繁になっていったに違いない。

 そして、この頻繁さから、やがて人民の側にある習慣的な黙諾が――もしお望みとあれば、人民の自由な意志によると言ってもよい、したがって人民の都合次第の、と言ってもよい、あの黙諾が――生まれたのである。

 けれども、すでにあるひとつの党派に加担している哲学者(→ジョン・ロックを指す)たち〔もっとも、このような人たちを哲学者と呼ぶことが、哲学者という言葉の意味に矛盾しない限りでのことだが〕は、このような譲歩では満足しない。

 彼らは、生まれたばかりのほやほや政府が、すでに人民の同意、あるいはむしろ自発的な黙諾に基づいている、と主張するだけではない。

 さらに彼らは、政府が完全な成年に達した現在でさえ政府の基礎はそれ(=人民の同意、自発的黙諾)以外にはないのだと主張する。

 彼ら(=ジョン・ロックらの学派)は次のように断言する。

 ――すべての人間はつねに生まれながらに平等である。

 したがって、君主や政府に対する忠誠義務も、あらかじめ約束に基づく義務と制裁とによって拘束されているのでない限りは、課せられることができない

 それにまた、だれでも、それ相当のものを償われることなしには、(自然法に基づく)生来の自由の権利を放棄してまで他人の意志に従おうとする者はいない

 したがって、この約束はつねに条件付きのものだと考えられる。

 つまり、それは、もしも君主から正義と保護が得られないならばなんらの義務も課すものではないと考えられる。

 君主はこのような利益を服従の代償として約束している。

 もしも彼がこの約束を果たさないならば、それは、すでに君主みずからが契約の条項を破り、それによって臣民のあらゆる忠誠義務から解放したことを意味するのだ(ジョン・ロックらの学説ここまで)――と。

 以上が、例の哲学者たちの主張する、あらゆる政府権力の基礎であり、また、あらゆる臣民の所有する反抗権である。

 けれども、このような理屈家さんたちも、一度よく現実世界を見渡してみるならば、そこには自分たちの考えに少しでも一致するもの、また自分たちのそんなにも洗練された哲学的な理論の裏付けとなるものが何一つとして存在しないことに気づくだろう。

 逆にわれわれはいたるところで、臣民は自分の財産であると主張し、また、君権は征服や継承に由来するもので、臣民には依存しないとする君主たちに出会うのである。

 しかも彼らの臣民もまた、君主のこのような権利を承認しているのを見いだす。

 臣民の側では、あたかも人は生まれながらに各自の定まった両親に対して尊敬を捧げ、義務を尽くさねばならないように、一定の君主に対しても、生まれながらに服従義務を負っているのだと思いこんでいる(=自然な感情を持っている)のである。

 …原始契約ないしは人民の同意というこの原理に対して、もっと本格的な、少なくともより哲学的な反論を求めるとすれば、おそらく次のような考察がそれに値するだろう。

 いっさいの道徳的義務は二つの種類に分けられる。

 まず第一の種類は一種の自然的本能、または直接的に作用するある種の傾向によって人間に強制されるものである。

 このような本能ないし傾向は、公益だとか私益だとかに対する、いっさいの義務観念や見解とは無関係に人間に働きかける。

 子供に対する愛情、恩人に対する感謝の念、不幸な人々に対する同情は、この種のものである。

 このような人道的な諸本能によってもたらされる社会的利益を反省して(=経験的に省みて)、われわれはそれら諸本能に、正当にも道徳的是認と尊敬を贈るのである。とはいえ、現にこのような諸本能によって駆り立てられる当の御仁においては、このような反省は二の次であって、何よりもまずそれらの力と影響が感受されているのである。

 ※ 引用文中の(  )内はすべて〔=ブログ作成者〕の補足説明である。

 以降は、保守主義の哲学---D・ヒューム、E・バークの“憲法”とJ・ロックの「原始契約」について(2/2)に続く。

【平成23730日掲載】

エドマンドバーク保守主義者(神戸発)